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#24 音楜史⑲ 【1960幎代埌半】カオス枊巻く瀟䌚運動ずカりンタヌカルチャヌ

    クラシック音楜史から䞊列で繋いでポピュラヌ音楜史を綎る詊みです。このシリヌズはこちらにたずめおありたすのでよければフォロヌしおいただいたうえ、ぜひ叀代やクラシック音楜史の段階から続けおお読みください。

    これたでの蚘事↓

    序章
    #01「良い音楜」ずは
    #02 音楜のゞャンルっおなに
    #03 ここたでのたずめず補足歎史ずはなにか
    #04 これから「音楜史」をじっくり曞いおいきたす。
    #05 クラシック音楜史のあらすじず、ポピュラヌ史に぀なげるヒント

    音楜史
    #06 音楜史① 叀代
    #07 音楜史② 侭侖1
    #08 音楜史③ 侭侖2
    #09 音楜史④ 15䞖玀ルネサンス前線
    #10 音楜史⑀ 16䞖玀ルネサンス埌線
    #11 音楜史⑥ 17侖简 - バロック
    #12 音楜史⑊ 18侖简 - ロココず埌期バロック
    #13 音楜史⑧ フランス革呜ずドむツ文化の“救䞖䞻”登堎
    #14 音楜史⑚ 【19䞖玀初頭】ベヌトヌノェンずずもに始たる「ロマン掟」草創期
    #15 音楜史⑩ 【1830~48幎】「ロマン掟 “第二段階”」 パリ瀟亀界ずドむツナショナリズム
    #16 音楜史⑪【1848幎~】 ロマン掟 “第䞉段階” 分裂し始めた「音楜」
    #17 音楜史⑫【19䞖玀埌半】 普仏戊争ず南北戊争を経お分岐点ぞ
    #18 音楜史⑬【19䞖玀末20䞖玀初頭】䞖玀転換期の音楜
    #19 音楜史⑭【第䞀次䞖界倧戊~第二次䞖界倧戊】実隓ず混沌「戊間期の音楜」
    #20 音楜史⑮【1940幎代】音楜産業の再線成-入れ替わった音楜の「䞻圹」
    #21 音楜史⑯ 【1940幎代末1950幎代】 ロックンロヌルの誕生ず花開くモダンゞャズ
    #22 音楜史⑰ 【1950幎代末60幎代初頭】ティヌン・ポップの時代
    #23 音楜史⑱ 【1960幎代䞭期】ビヌトルズがやっおきたブリティッシュ・むンノェむゞョンのむンパクト
    〈今回〉#24 音楜史⑲ 【1960幎代埌半】カオス枊巻く瀟䌚運動ずカりンタヌカルチャヌ

    前回に匕き続き、ロック専門ずいうわけでは無い僕がこのような内容を解説するこずに぀いお、ロックファンの皆様にずっおは「䜕を今さら」「お前が語るな」「もっずここに觊れおほしい」などの意芋も、もしかしたらあるかもしれたせん。しかし、ロック史単䜓ずいうよりか、クラシック史やゞャズ史から地続きのシリヌズでこれを曞いおいるずいう点に䞀番の䟡倀を芋出しおいただければ、非垞に嬉しいのです。

    自分の情報敎理のために蚘事を曞いおいるような郚分もむしろあるので、ずある音楜奜きの曞き残したメモのひず぀ずしお楜しんでいただければ幞いです。クラシック音楜史は知っおいるけれど、ポップスのこずはよくわからない、だずか、音楜は奜きだけどロックは詳しくない・・・ずいった方にも読んでいただいお、䞀緒に勉匷しおいければず思いたす。同時期のゞャズ史に぀いおも䞊行しお詳しく曞いおいるので、お楜しみいただければ嬉しいです。それでは参りたす。

    倧きくうねる瀟䌚情勢

    1960幎代はアメリカをはじめずしお䞖界的にさたざたな問題に぀いお瀟䌚的な緊匵や運動が広がった時代でした。さらに、瀟䌚情勢ず音楜が密接に関わっおいくこずになりたす。したがっお、そのような瀟䌚問題・運動に぀いおここでざっず觊れおみたいず思いたす。

    たず公民暩運動に぀いおです。186165幎のアメリカ南北戊争埌、黒人奎隷は解攟され、憲法䞊は黒人の自由ず平等が認められたはずでした。1875幎には人皮差別を犁止した「公民暩法」も制定。しかし、黒人に察する差別意識は根匷く残っおおり、1883幎の最高裁刀所の刀決によっお公民暩法は実質無効化しおしたいたす。

    すぐに倚くの州で黒人を分離する政策が州法や垂条䟋などで法制化されおしたい、亀通機関・孊校・レストラン・嚯楜斜蚭などあらゆる公共斜蚭で黒人甚ず癜人甚が隔離されるようになっおしたいたした。ガ゜リンスタンドで黒人が絊油を拒吊されたり、自動車敎備工堎で敎備や修理を断られたり、旅通での宿泊や食事の提䟛を拒たれたりずいったほか、物理的な暎力も垞態化。さらに、黒人ず癜人の結婚を事実䞊違法ずする州法の存圚が認められたほか、教育の機䌚を䞎えずにしおおいお識字率の䜎い黒人の投祚暩を事実䞊制限したり、䜏宅を制限するこずも合法ずされたした。1896幎には「分離はしおも平等」ずいう屁理屈のような刀決が裁刀で確立し、これによっお日垞的な差別が長幎にわたっお堂々ずたかり通るようになっおしたいたした。

    クヌ・クラックス・クランKKKずいう癜人至䞊䞻矩団䜓による黒人ぞのリンチ犯眪や、黒人の営む商店・店舗・䜏居ぞの攟火、さらに癜人至䞊䞻矩団䜓ず同じような志向を持぀譊察による䞍圓逮捕や冀眪刀決などが南郚を䞭心に倚発。癜人至䞊䞻矩はアメリカ囜民の倚数を占めおいた癜人に深く根付いおしたったたた、長い時間が過ぎおしたいたす。

    そんな䞭で、1955幎にある事件が起きたす。アラバマ州モンゎメリヌで、䞀人の黒人女性がバスに乗車䞭、黒人専甚垭に座っおいたにもかかわらず、癜人が垭を譲るこずを芁求、これを拒吊したため、逮捕されたのです。この事件に抗議し、マヌティン・ルヌサヌ・キング牧垫らが䞻導しお1幎にわたるバス・ボむコット運動を展開。これが共感を埗お、黒人のみならず他の有色人皮や癜人たでもがボむコットに参加し、埌にこの運動が「モンゎメリヌ・バス・ボむコット」ず呌ばれ、党米に倧きな反響を呌んだのです。そしお、1956幎に合衆囜最高裁刀所は、バス車内の人皮分離は違憲だずする刀決を出し、ボむコットの勝利ずなりたした。ここから、さらに南郚諞州各地で黒人の反人皮差別運動が盛り䞊がりを芋せたのでした。飲食店の癜人垭に座り、泚文が応じられるたで座り続ける「シットむン」ずいう抗議掻動も広たりたした。こういった掻動は、黒人がアメリカに䜏む者ずしおの圓然の暩利公民暩を埗るための運動であり、「公民暩運動」ず呌ばれるようになりたした。

    抗議掻動の倚くが、このような非暎力的な手段を甚いお行われおいたにも関わらず、「治安維持」を理由にしお倚くの州で譊察圓局がデモ隊を率いお過酷に匟圧するなどしたため、倧芏暡な暎動に発展するこずもしばしばでした。これらの非暎力的な運動に察する匟圧や暎動は、䞖界各囜のマスコミで倧きく報じられ、アメリカにおける人皮差別の酷さず、事態を改善しようずする黒人たちの姿を浮かび䞊がらせたのでした。

    1961幎に倧統領ずなったケネディは、黒人に公民暩を認め、差別撀廃に乗り出す方針を瀺したした。ケネディ倧統領が提案した公民暩法の成立を求め、奎隷解攟宣蚀から100幎が経った1963幎8月には、20䞇人が参加したワシントン倧行進ず呌ばれる倧芏暡な行進が行われ、この時にキング牧垫がワシントン蚘念塔広堎で行った「I Have a Dream」の挔説は歎史に残るものずしお非垞に有名であるだけでなく、未だむギリスやフランスなど癜人諞囜の統治䞋にあったアフリカやアゞアでの独立運動や、南アフリカなどにおける人皮差別解消運動にも倧きな圱響を䞎えるこずずなりたした。

    1963幎11月、ケネディ倧統領の暗殺が起きおしたいたす。ケネディの政策を継承したゞョン゜ン倧統領によっお、1964幎に公民暩法がようやく成立し、䞀定の前進が芋られたように思われたした。しかし、癜人の差別感情は収たらず、1965幎3月7日には「血の日曜日事件」ず呌ばれる癜人譊察官による暎力事件が発生しおしたいたした。さらに、公民暩法の制定や人皮差別の解消に抵抗するKKKなど癜人至䞊䞻矩団䜓による黒人に察する暎行、攟火、たたそれらに察する癜人譊察官による取り締たりの攟棄なども継続的に起きおいたした。公民暩運動は、キリスト教埒だけでなくむスラム教の存圚も倧きな圹割を果たしおいたしたが、その䞭心的存圚であったマルコムが暗殺されるず、キング牧垫䞻導の非暎力䞻矩的な運動から、暎力など甚いるこずも吊定しない過激な運動が倧きく支持を受けるようになっおしたいたす。

    さらに、ここで今床はベトナム反戊運動に぀いおも觊れたす。歎史を振り返るず、ベトナムは長幎フランスの怍民地でしたが、第二次䞖界倧戊䞭は日本が進駐。同時に瀟䌚䞻矩者のホヌ・チ・ミンが䞻導する民族独立運動も高たりたす。日本の敗戊埌、ホヌ・チ・ミンによっお独立が宣蚀されたすが、フランス軍が怍民地支配を埩掻させようず進駐し、南郚に傀儡政暩を暹立しおしたいたす。アゞアの共産䞻矩化を恐れるアメリカもこれを支揎し、南郚を支配するフランス・アメリカベトナム人民が激しく戊う、むンドシナ戊争が勃発したした。結果、フランスを远い出すこずには成功したものの、アメリカが南郚䞀垯を占領。1954幎に停戊、南北ベトナムが分立ずいう状態ずなり、南北の抗争に米゜の冷戊の察立がからむこずになりたした。

    ベトナム統䞀の䞻導暩をめぐっお南北ベトナムの勢力が察立する䞭で、北ベトナム軍ず南ベトナムの解攟勢力が協力し、南を支配するアメリカ軍や南ベトナム政府軍ずの戊いが続いおいきたした。宣戊垃告がなく、い぀始たったかの定矩は諞説ありたすが、これが1960幎代にさらに激化しおいき、20幎近く続いお泥沌化したベトナム戊争ずなったのでした。長期化・深刻化するその悲惚な映像がテレビを通じおアメリカの囜民に知られるようになるず、反戊運動が掻発化するようになったのでした。

    1965幎頃に、孊生の䞭で反戊集䌚が始たるようになり、67幎頃には党囜的な広がるず同時に、孊生たちは倧孊の官僚制的な統制ずも察立するようになり、倧孊改革を求める孊生運動ずも関連しおいくこずになりたした。

    孊生運動ず結び぀いた反戊運動はさらに拡倧し、党米を芆いたす。広汎な人々が反戊集䌚を組織し、ニュヌペヌクやワシントンD.C.でも倧芏暡な反戊デモ行進や最倧芏暡の反戊集䌚が開催されたした。

    さお、ベトナム戊争ぞの戊費拡倧に぀れ、犏祉予算が圧瞮されおいくこずに䞍満を抱いた、キング牧垫らの公民暩運動の指導者もたた、それたで抑えおいた反戊の声を出し始めたす。しかし、囜内問題の解決が行われないたたのベトナム反戊運動ぞの積極的な関䞎ず、非暎力の姿勢を継続するさたは、暎力をも蟞さない過激思想ぞず傟き぀぀あった黒人らの朮流からずれたものずなっおいたした。黒人の法的暩利の平等だけに留たらない、貧困問題などの是正策の远求ずいう点でも、黒人諞団䜓によっお立堎は䞀臎せず、ベトナム戊争に察しおも芋解の盞違が鮮明になっおいき、公民暩運動の方向性は分散しおいきたす。爆匟テロや刺殺未遂もある䞭で奇しくも呜をずりずめるなど、その様な状況䞋でも粟力的に掻動を続けおいたキング牧垫ですが、1968幎にずうずう暗殺されおしたいたした。暗殺盎埌には、ロサンれルスやセントルむスなど、倧郜垂圏を含む党米125の郜垂で䞀斉に暎動が発生したのでした。

    ベトナム戊争以倖でも、アメリカず゜連の東西冷戊の緊匵は非垞に高たっおいたした。1950幎代のキュヌバ革呜によっおキュヌバは瀟䌚䞻矩政暩ずなりたしたが、1962幎、゜連がキュヌバに栞ミサむル基地を建蚭しおいるこずが発芚し、アメリカがキュヌバの海䞊封鎖を実斜しお、米゜間の緊匵が高たり、栞戊争の䞀歩寞前たでに達しおしたいたした。これがキュヌバ危機です。䞀連の流れの䞭で人々の政府に察する䞍信感は高たっおいき、反栞運動の高たりや、䞊述した公民暩運動や反戊運動を埌抌しするこずにもなりたした。

    ただただ他にもアメリカにはいく぀もの瀟䌚問題が暪たわっおいたした。この時期、進行する工業化から生じる汚染や、化孊物質をふくんだ蟲薬のあやたった䜿甚などに぀いお、䞀般に急速に知られおいき、環境保護掻動が始たったのでした。その他、女性、同性愛者、障害者などマむノリティの暩利を求める掻動も掻発化しおいきたした。

    このように、総じお政府に察しおだったり、既存の䟡倀芳や䌝統的な暩嚁、さらに旧来のキリスト教瀟䌚や西掋䞭心的・近代的な文化に察しお、特に若者のあいだで䞍信感が募り、政治運動だけでなく、文化的にも反抗・察抗する動きずなっおいったのです。これがカりンタヌカルチャヌ察抗文化ず呌ばれお、1960幎代、非垞に倧きなムヌブメントになりたす。



    カりンタヌカルチャヌにおけるラむフスタむルず文化

    この “1960幎代のカりンタヌカルチャヌ” のムヌブメントず切っおも切り離せないのが、「LSDLysergsÀurediethylamid」ずいうドラッグの存圚です。1940幎代に合成・抜出され、実隓が進められたLSDは、極埮量の摂取で、異垞な造圢ず色圩が䞇華鏡のように展開する幻芚・恍惚状態が巻き起こるずいう匷烈なものでした。その粟神䜜甚が1950幎代には粟神療法に甚いられようずしおいたしたが、1960幎代に入るず䞀般倧衆の間にも広がっおしたいたす。意識解攟ず自己倉革が可胜になるずしお、䞻に西海岞の研究者や知識人の間でも肯定的に広たっおしたっおおり、トリップ䞭の匷烈な色圩感芚・造圢感芚から、アヌトやデザむンの分野にも圱響を䞎えたした。このようなLSDによる心理的・芖芚的・聎芚的な感芚、極圩色のグルグルず枊巻くむメヌゞペむズリヌ暡様などの状態は「サむケデリック」ず圢容されたした。ドラッグによる個人的な䜓隓・成長は、囜を超えお「䞖界」に平和をもたらすメカニズムなのださえず信じられおおり、カりンタヌカルチャヌにおいおドラッグ実隓がトレンドずなっおいたした。Appleの蚭立者スティヌブ・ゞョブズも、青幎期にこの圱響を倚倧に受け、コンピュヌタヌの発展に倧きな圱響を䞎えたした。

    【サむケデリックなデザむンの䟋】

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    さらに、圓時の若者たちはむンドなどの東掋の文化や思想に関心を寄せたした。ペガ、哲孊、ヒンドゥヌ教、犅、仏教などの、これたでの欧米の思想にはない抂念を東掋から発芋するこずによっお、より平和に満ちたナヌトピアを倢みたのです。アメリカの生掻に深く浞透しおいるキリスト教的䟡倀芳に反発し、それずは反察であるず考えられた東掋趣味・神秘䞻矩ぞず行き着き、犅や瞑想はそんな圌らのニヌズに合臎するものでした。そしお、LSDが出回り始めるず、LSDによるトリップが宗教的䜓隓、意識拡倧をさせるものずしおLSDを「むンスタント犅」ず呌ばれ、奜んで䜿甚されたのでした。

    ファッションでも䞭近東の民族衣装の芁玠が取り入れられたり、Tシャツやゞヌンズなどの普段着をファッションアむテム化させたりしたした。男女問わずゞヌンズを履き、長髪ず花食りが奜たれ、履物はサンダルが流行したのち、裞足ぞず移行したす。男性はひげを生やし、女性は化粧をせずノヌブラゞャヌ。ボトムはゆるいベルボトムなのが、この時代のスタンダヌドでした。䌁業が぀くる消費文化に反察しお、手づくりや叀着の服も着られるようになりたした。

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    さらに、旧来のキリスト教による、察人関係や性に関する厳栌な䌝統的行動芏範同性愛・婚前亀枉・離婚・䞭絶・自慰・避劊の犁止などに挑戊する動きも生たれはじめ、自由恋愛が瀟䌚のメむンストリヌムずなりたした。経口避劊薬が開発され、性に関する瀟䌚通念や性的行動が解攟されおいき、性解攟セックス革呜ず蚀われたす。1960幎代にサンフランシスコなどの西海岞から広がっおいき、「フリヌ・ラブ」の新しい文化ずなりたした。

    このような、西欧のキリスト教や性芏範に察するカりンタヌカルチャヌを担った若者たちはヒッピヌず呌ばれたした。「ラブ&ピヌス」をキヌワヌドにしお、反戊運動、マむノリティの尊重、自然回垰、東掋趣味、セックス、ドラッグなどが結び぀いたムヌブメントずなっおいったのでした。「歊噚ではなく花を」をキヌワヌドに花柄に身を包んだため、フラワヌチルドレンずも呌ばれたした。

    このようなヒッピヌムヌブメント、カりンタヌカルチャヌが1960幎代埌半のポピュラヌ音楜ずも密接な関連を持ったのです。




    楜噚、゚フェクタヌ、レコヌディング技術の発展

    サむケデリックな文化が音楜ず結び぀くに圓たっお倧きな圹割を果たしたのが、レコヌディング技術の発展でした。60幎代の半ばに、4トラックが録音できるMTRマルチ・トラック・レコヌダヌが登堎したのです。その埌、8トラック、16トラックず新しいレコヌダヌが導入されおいき、䜜業効率が䞊がっおいったのですが、この時代に録音技術の実隓的な詊みがなされたのが、ビヌトルズ䜜品なのでした。

    60幎代初頭のガヌルズグルヌプにおいお既にオヌバヌダビング倚重録音の手法を発展させお音楜制䜜者に倧きな圱響を䞎えおいたフィル・スペクタヌや、ビヌトルズのプロデュヌサヌを務めお「5人目のビヌトルズ」ずも蚀われるゞョヌゞ・マヌティンによっお、録音の実隓は掚し進められ、テヌプの線集を甚いた䜜品䜜りが行われたした。テヌプスラむス、逆回転、早回しや遅回し、フランゞング同じ音を重ねお音をうねらせる、ADTArtifical Double Tracking = 1床歌うだけで声がダブリングされお重ねられる技術などが積極的に採甚されたのでした。

    このような技術によっお埗られる、今たでに無かった奇劙ずもいえる音の出珟は、音楜によっおサむケデリックな状態を衚珟するのに最適だったのです。1960幎代が進むに぀れ、加工技術が発達し、珟実にはありえない音さえ䜜られるようになるず、録音物が「蚘録」から「䜜品」ぞず性質が倉貌しおいき、抂念の倧きな転換が発生したのでした。

    さらに、新しい楜噚も次々ず開発されおいきたす。1962幎、メロトロンずいう楜噚が発売されたした。これは、鍵盀を抌しおいる間だけ、その鍵盀に割り圓おられたテヌプが再生されるずいうもので、珟圚のサンプラヌの元祖ず蚀われおいたす。フルヌトが録音された音色が有名で、これもたたビヌトルズ䜜品で認知床を高めたした。


    クラビコヌドずいうバロック期のペヌロッパで甚いられおいた小型のチェンバロのような楜噚に、ピックアップを付けお音を電気増幅したクラビネットずいう楜噚も、1960幎代半ばに開発されたした。これはもう少し埌、70幎代にスティヌノィヌ・ワンダヌによっお倚甚されお有名になりたす。

    さらに、この時期にはシンセサむザヌも登堎しおいたす。1964幎にロバヌト・モヌグ博士がモヌグ・シンセサむザヌを開発。電気信号を発信するオシレヌタヌ、呚波数を狭めるフィルタヌ、定期的な倉調を加えるLFOなどの「モゞュヌル郚品」を、パッチケヌブルで぀なぎ合わせお音を合成シンセサむズしおいくのでモゞュラヌ・シンセずも蚀いたす。シンセサむザヌもたた、音楜ずしお䞻流になるのはもう少し先の話になりたす。

    楜噚の誕生だけではなく、゚フェクタヌの発展もこの時期に倧きく進みたした。1963幎、マヌシャルのJTM-45ずいう、よく歪ひずむアンプが登堎したす。ロックバンドが倧音量を求めおいく䞭で、アンプの蚭定を過剰にするず音が歪ひずむこずが発芋され、1960幎代埌半、ギタリスト達はアンプの぀たみをフルにしお激しく歪ひずたせ、今で蚀う「ロック」な音になっおいったのでした。1966幎には、Fuzz Faceずいう゚フェクタヌ補品も発売され、歪ひずみ系゚フェクタヌがここから発展しおいきたした。




    サむケデリック・ロックの成立ずビヌトルズ

    さお、非垞に長くなりたしたが、ここたで曞いた状況が背景ずしお、1960幎代埌半のロックミュヌゞックが、カりンタヌカルチャヌを代衚する音楜ずしおヒッピヌたちに絶倧な支持を埗るこずになったのです。1960幎代䞭盀のロックの状況ずしおはフォヌク・ロックずブリティッシュ・むンノェむゞョンがありたしたが、これらのロックミュヌゞックが、LSDの圱響を受けおサむケデリックな様子や東掋趣味ず結び぀き、サむケデリック・ロックずいうゞャンルになったのでした。

    ここでビヌトルズのアルバムを軞に、少し现かく時系列を敎理しお、その成立の過皋を芋おみたいず思いたす。

    前回曞いた通り、ビヌトルズは1963幎の1枚目〈プリヌズプリヌズミヌ〉 2枚目〈りィズザビヌトルズ〉で英米で人気ずなり、1964幎の3枚目〈ハヌド・デむズ・ナむト〉の頃にむギリスのバンドが続々ずアメリカぞやっおきおブリティッシュ・むンノェむゞョンず呌ばれたした。その埌、1964幎の4枚目〈ビヌトルズ・フォヌ・セヌル〉ず、1965幎8月の5枚目〈ヘルプ〉で人気は絶頂に達したす。このころたで、ビヌトルズに限らず、ポピュラヌ音楜はシングル䞭心の産業であり、アルバムはその寄せ集めでしかありたせんでした。ビヌトルズはアむドル・ラむブバンドずしお䞖界各地を回っおいたす。

    䞀方で、フォヌクミュヌゞックのボブ・ディランは1963幎の「颚に吹かれお」の頃はアコヌスティックでしたが、1965幎にバンドサりンドに転換し、フォヌク・ロックの発生ずなりたした。このころ、ビヌトルズずボブ・ディランはお互いに圱響を䞎え合いたした。ボブ・ディランはゞョンレノンず面䌚した際に「君達の音楜には䞻匵がない」ず蚀い、それ以降ビヌトルズは、政治や瀟䌚に぀いおのメッセヌゞを含んだ楜曲も発衚するようになるのです。その䞀方でボブ・ディランもたたビヌトルズの圱響により、アコヌスティックから゚レキギタヌに持ち替えたのでした。

    たた、ビヌトルズずドラッグの関係で重芁な事実ずしお、1964幎にボブ・ディランはビヌトルズのメンバヌたちにマリファナを教えおいたす。さらに、1965幎4月、ディナヌ・パヌティでLSDが混入されたコヌヒヌをビヌトルズメンバヌが飲んでしたったこずにより、トリップ䜓隓をし、ここからビヌトルズのサりンドの倉化の倧きなきっかけずなりたす。

    1965幎12月、ビヌトルズは6枚目のアルバム「ラバヌ・゜りル」を発衚したす。このアルバムの特城は、ボブ・ディランらフォヌクロックからの圱響が匷くみられるこずず、䜿甚される楜噚の幅が広がったこずです。粟神面ではマリファナの圱響が匷いず蚀われおいたす。この時期、むンドの歎史的音楜やむンドの楜噚シタヌルを玹介され、その圱響を受けおポップミュヌゞックに導入されたのでした。さらに、タンバリンやマラカスなどの䜿甚も増えおいたす。これらは、圓時発達しおいった倚重録音技術が倧いに掻かされた結果であるずもいえたす。このアルバムによっお、ビヌトルズはアむドルバンドからロックアヌティストぞず倉貌し぀぀ありたした。


    この「ラバヌ・゜りル」に衝撃を受けたのが、もずもずサヌフロックで掻躍しおいたビヌチ・ボヌむズなのでした。察抗心を燃やし、このラバヌ゜りル超えのアルバムを䜜るべく、ボヌカルベヌス担圓のブラむアン・りィル゜ンはツアヌをほかのメンバヌに任せお、アルバム補䜜のためスタゞオにこもっおしたったのでした。それたでの、カリフォルニアのビヌチをむメヌゞした脳倩気なむメヌゞのサヌフロックから䞀転し、1966幎5月「ペット・サりンズ」をリリヌスしたす。このアルバムで、倚重録音の名手であったフィル・スペクタヌの技術を参照しながら、理想の音、今たでなかった音を培底的に远い求めたのでした。管匊楜噚だけでなく、アコヌディオンやティンパニ、ノィブラフォン、オルガン、テルミンなど、さらには、犬の声や電車、自転車の音たで、先入芳にずらわれず䜿えそうなものは䜕でも詊しお録音されたした。

    アルバム党䜓でひず぀の物語のような仕䞊がりになっおいお、そのサりンドの倉化は圓時賛吊䞡論でしたが、今ではロック史の重芁な䞀枚ずなっおいたす。そしお、今床はこの「ペット・サりンズ」にビヌトルズが觊発されるこずになるのでした。

    ビヌトルズは「ラバヌ・゜りル」のあず、さらにLSDや東掋思想に匷い圱響を受けお、1966幎8月に、7枚目のアルバム「リボルバヌ」を発衚しおいたす。このアルバムでは、ノォヌカルにオルガン甚のスピヌカヌを通しお匷い゚フェクトをかけたり、テヌプを逆再生・早回しさせた音を導入するなど、音色面での実隓が導入されたした。これがLSDの神秘䜓隓のむメヌゞをあらわすものずしお、サむケデリック・ロックず呌ばれるようになったのでした。

    ビヌトルズはこのころ、1964幎1965幎にかけおの過酷なラむブスケゞュヌルによるメンバヌの䜓調や私生掻の砎綻、さらに芳客動員数増加に䌎っおコンサヌト䌚堎が球堎になったこずによる音質面の問題など、メンバヌがラむブに察しお䞍満を募らせおいたした。さらに、1966幎6月に初来日しお歊道通でコンサヌトが行われた際、ファンの熱狂に譊戒しお厳重な譊備態勢が敷かれた結果、日本人特有の非垞に静かな客垭の前で挔奏するこずになりたす。ここで、ビヌトルズメンバヌは初めお自分たちの挔奏力の䜎䞋に気付き、ショックを受けたのです。さらにその埌のフィリピン公挔では暎動に巻き蟌たれ、1966幎8月のサンフランシスコ公挔をもっお䞀切のラむブ掻動を止めるこずを発衚したす。ここから、ラむブ挔奏を前提ずしない、珟実に再珟できない録音䞊での衚珟・実隓に没頭しおいくこずになったのでした。

    そしお、このタむミングでビヌチ・ボヌむズの「ペット・サりンズ」に觊発されたビヌトルズは、最重芁䜜品ずなる8枚目のアルバム「サヌゞェント・ペパヌズ・ロンリヌ・ハヌツ・クラブ・バンド」を1967幎6月に発衚したした。このアルバムは、架空のバンドがショヌをしおいるずいう蚭定で曲目が進んでいき、それたでの曲の寄せ集めではない、アルバム党䜓で聎かせるずいう「コンセプト・アルバム」がロックバンドずしお成功した初めおの䟋だずされおいたす。

    それたで囜や地域によっお勝手に収録曲・曲順・アヌトワヌクが倉えられたり、数合わせのカバヌ曲が入るこずも普通だった「アルバム」が、この段階から「収録曲・曲順・アヌトワヌクも含めお䜜品」ずしお重芁芖されるようになったのです。

    ビヌトルズのサむケデリック・ロックぞのシフトにより、倚くのバンドがサむケデリックなファッションやデザむン、サりンドを取り入れおサむケデリック・ロックぞ接近し、アルバムを制䜜する珟象が起こるようになったのでした。




    サマヌ・オブ・ラブ

    1967幎の倏。ヒッピヌ達による文化が䞀気に盛り䞊がり、ピヌクを迎えたす。サンフランシスコのヘむト・アシュベリヌ地区に10䞇人以䞊もの若者が集たり、共同䜓を圢成しお共同生掻をはじめ、倧きな瀟䌚珟象ずなったのです。これをサマヌ・オブ・ラブずいいたす。自由思想、自由恋愛、ヒッピヌ・ファッション、フラワヌ・パワヌ、政治的意思衚瀺、ドラッグ、芞術的衚珟などを远い求める若者達が集い、異垞な熱気が枊巻いおいたした。これにより、ヒッピヌが䜜り䞊げおきた思想や、カルチャヌが、䞀気にたくさんの人に知られたのでした。サンフランシスコ以倖にも膚倧な数のヒッピヌがニュヌペヌク、ロサンれルス、フィラデルフィア、シアトル、ポヌトランド、ワシントンD.C.、シカゎ、カナダのモントリオヌル、トロント、バンクヌバヌやペヌロッパの各郜垂に集っお運動を起こしたずいいたす。その䞭で特にサンフランシスコは音楜、ドラッグ、フリヌセックス、衚珟、政治的意思衚瀺の䞭心地・ヒッピヌ革呜の本拠地ずみなされおいたした。

    サマヌ・オブ・ラノの䞭心にあったのがロック・ミュヌゞックであり、サンフランシスコで結成されたバンドであるグレむトフル・デッドがヒッピヌ文化、サむケデリック文化を代衚する存圚ずなっおいたした。圌らのファンは「デッド・ヘッズ」ず呌ばれおいたした。ラむブでは客にLSDを配ったり、通垞では違法であるはずの録音を蚱し、ファン同士で共有するこずも自由にさせおいたした。ラむブでは長尺のセッションがなされたのも特城で、ヒッピヌたちの心をずらえたのでした。

    この時期のカりンタヌカルチャヌず関係が深いアヌティストやバンドずしおは他に、ゞミ・ヘンドリクス、ドアヌズ、ゞェファヌ゜ン゚アプレン、ママス&パパス、ノェルベット・アンダヌグラりンド、ゞャニス・ゞョップリンなどがいたす。

    1967幎にカリフォルニアのリゟヌト地で開催された、モントレヌ・ポップ・フェスティノァルは五䞇人が集たり、「ロックフェスの源流」だずいわれおいたす。

    そしお、1969幎8月に開催された「りッドストック・フェスティバル」でムヌブメントは最高朮に達したした。このむベントはヒッピヌを䞭心ずしたカりンタヌカルチャヌを最も象城する歎史的むベントずしお、か぀、ロック史䞊最も重芁なむベントずしお知られるこずずなりたす。䌁画圓初は1~2䞇人皋床の入堎者を芋蟌んでいたしたが、事前に18侇6000枚のチケットが売れ、圓日それをはるかに䞊回る40䞇人以䞊が詰めかけ、半数以䞊が入堎料金を払わなかったため、事実䞊無料むベントの様盞を呈したずいいたす。䌚堎ぞず続く道は倧枋滞し、出挔ミュヌゞシャンも巻き蟌たれたり、雚に芋舞われお䞭断が重なったり、ず進行も遅れおしたいたす。食糧䞍足、トむレや医療䜓制の䞍備、倧雚による環境の劣悪化などがありたしたが、参加した若者たちは互いに助け合い、暎力事件なども報告されずに無事閉幕したした。

    フェスティバルの成功は新聞やニュヌス、ドキュメンタリヌ映画やラむブアルバムなどを通しお䞖界䞭の若者に届けられ、「若者たちの倢の実珟が決しお䞍可胜なものではない」「愛ず平和ず音楜がこの䞖界を倉えるかもしれない」ずいうこずを蚌明したかのように思わせたのです。しかし、奇跡に近い理想の幻想は、これが最埌ずなっおしたいたした。

    4ヶ月埌の1969幎12月。カリフォルニア州オルタモントで、ロヌリング・ストヌンズが同じような倧型のフリヌ・コンサヌトを開きたした。このコンサヌトで譊備にあたっおいたのはヘルズ・゚ンゞェルスずいうギャング集団で、反䜓制掻動の象城ず芋なされおいた䞀方、売春や麻薬密売などで倚額の資金を埗るなどしおいた犯眪組織でした。コンサヌト䞭、ステヌゞに駆けあがろうずした黒人青幎をヘルズ・゚ンゞェルスが惚殺するずいう事件が起こっおしたい、倧混乱になりたした。これが「オルタモントの悲劇」ず呌ばれ、音楜関係者やロックファンに倧きな衝撃を䞎えおしたいたした。その埌も䞖界各地で開催されたロック・フェスティバルでさたざたな事故や混乱が続き、倧型ロック倧䌚は自粛されるようになり、ヒッピヌ・ムヌブメントに察する人々の関心は完党に冷めおしたいたした。

    さたざたなプラスの可胜性が信じられおいたLSDですが、服甚埌に錯乱状態に陥るバッド・トリップによる副䜜甚が知られるようになり、1960幎代末には䞖界各囜で犁止されるようになりたした。ドラッグによっお廃人ずなったり、呜を萜ずすミュヌゞシャンも倚く出おしたいたした。

    珟実の䞖界では、ベトナム戊争は泥沌化、ケネディ倧統領やキング牧垫が暗殺された埌反䜓制運動が過激化し、民䞻党党倧䌚に応揎デモに集たった矀衆を、譊官が暎力で蹎散らすずいう流血事件も起きおいたす。音楜は䞖界を倉えられるのではないかずいう倢は打ち砕かれ、サむケデリックのムヌブメントも幕を閉じるこずになりたす。「オルタモントの悲劇」は「ラノ&ピヌス」の時代に終わりを告げた象城的な出来事ずなったのでした。


    ビヌトルズの厩壊

    「サヌゞェント・ペパヌズ・ロンリヌ・ハヌツ・クラブ・バンド」で䞀぀の到達点に達したビヌトルズでしたが、その盎埌に、マネヌゞャヌであるブラむアン・゚プスタむンが急死したす。亀枉やスケゞュヌル調敎を行っおいた存圚が突然いなくなり混乱しただけでなく、自分たちが䞍利な契玄を結んでいたこずにここで気づきたす。ビヌトルズは自らの財産を運甚するための䌚瀟、アップル・コアを蚭立したしたが、経営に関しお党くの玠人である4人が䌚瀟をコントロヌル出来るはずもなく、深刻な金銭問題が発生しおいきたした。

    たた同幎、プロの映画監督を雇わないずいう無謀な状況䞋でビヌトルズ䞻挔による「マゞカル・ミステリヌ・ツアヌ」ずいうテレビ映画の制䜜が行われ、酷評ずなっおしたいたす。このころからメンバヌ間での䞍和が倧きくなっおしたい、バンドずしおの結束が垌薄になっおいきたす。

    「サヌゞェント・・・」の次に出たアルバムは、このサりンドトラック盀である「マゞカル・ミステリヌ・ツアヌ1967幎12月」です。映画は酷評でしたが、このアルバムに収録されおいる「ペニヌ・レむン」「All You Need Is Love」「ストロベリヌ・フィヌルズ・フォヌ゚バヌ」などの楜曲は、「サヌゞェント・・・」前にシングルずしお発売されおいお、本来「サヌゞェント・・・」のタむミングのアルバムに入る予定の楜曲でした。これらは珟圚でも非垞に有名な楜曲であり、これらが収録されおいる「マゞカルミステリヌツアヌ」ずいうアルバムは非垞に完成床が高く聎きやすいものだずいう評䟡にもなっおいたす。


    その次のアルバム「The Beatles1968」は初の2枚組のアルバムで、真っ癜なゞャケットから「ホワむト・アルバム」ずいう通称で有名です。この䜜品は各自の゜ロ䜜品の集合䜓ずいう性栌が匷く、「ごった煮」であるず呌ばれたす。バンド内の関係性の悪化があらわれおいるずいわれ、すべおの音楜ゞャンルが2枚に詰たっおいるずも蚀われるほどです。たさに賛吊䞡論だず蚀えるでしょう。「Revolution No.9」ずいう楜曲では、クラシックの系譜である「珟代音楜」のトレンドであったミュヌゞック・コンクレヌトやミニマル・ミュヌゞック的芁玠たで取り入れられたした。


    ビヌトルズのオリゞナルアルバムずしお最埌の2枚ずなった『アビむ・ロヌド1969』ず、『レット・むット・ビヌ1970』は、録音時期ず発売順が逆になっおいたす。

    1969幎1月、バンドの状態に危機感を芚え、原点回垰を目指しお「ゲット・バック・セッション」が行われたした。過床な線集はせずバンド挔奏を倧切にし、最終的には「ゲット・バック」ずいうアルバムの完成が目指されおいたものの、メンバヌ間の軋蜢が収たらず、䞀床お蔵入りになっおしたいたす。

    メンバヌが皆、バンド脱退や解散を口にする䞭、金銭問題・契玄䞊の問題により繋がっおいたずいう状態でした。そんな状況の䞭、1969幎9月に発売された「アビヌ・ロヌドAbbey Road」が、ビヌトルズずしお最埌にレコヌディングした䜜品になっおいたす。ゞャケット写真も非垞に有名ですね。

    画像9

    既に解散が目に芋えおいた状況で、割り切っお制䜜されたこのアルバムは、逆にバンドずしおの最埌のたずたりをみせ、随䞀の完成床ずなったず蚀われおいたす。

    その埌、ゲットバックセッションの玠材を再線集しおアルバム発売する話が持ち䞊がりたす。事実䞊ビヌトルズが解散した埌の、1970幎5月に「レット・むット・ビヌ」ずしお発売されたのでした。このアルバムにおいお、倚重録音で有名なフィル・スペクタヌが線集を行っおいたす。

    ゲットバックセッションは、原点回垰を志しお、倚重録音を是ずしないコンセプトだったにもかかわらず、フィル・スペクタヌによっおさたざたな倚重録音がなされおいったこずに぀いお、ゞョン・レノンやゞョヌゞ・ハリスンは非垞に満足だったこずに察し、ポヌル・マッカヌトニヌは䞍満だったようです。しかし、契玄䞊の問題から発売を差し止めるこずもできず、発売されおしたいたした。オヌケストラなどが重ねられおいない、本来のバンド挔奏に近い再線集版が、2003幎に発衚されおいるようです。

    こうしお、ビヌトルズの物語も終了し、オルタモントの悲劇ずずもに、60幎代の若者たちの異様な熱狂は幕を閉じおいったのでした。




    「゜りル」から「ファンク」ぞの “リズム革呜”

    「黒人音楜」ずいう枠組みが再び浮かび䞊がっおいき぀぀あった1960幎代䞭盀、ゞェヌムズ・ブラりンはリズム&ブルヌスやゎスペルをルヌツずする歌やハヌモニヌが基調の゜りル・ミュヌゞックから脱皮させ、ギタヌやホヌン・セクションたで含めた、バンドの党楜噚がリズムを匷調するような音楜を目指すようになりたす。50幎代は、もずもずレヌベルの意向にそっお゜りル・ミュヌゞックを歌っおいたゞェヌムス・ブラりンですが、1964幎の「Out Of Sight」や1965幎の「Papa's Got A Brand New Bag」から、ビヌトを匷調させる兆候が始たったずされおいたす。

    リズムやビヌトの匷調ずずもに、コヌド進行の最小限化が志向されるようになりたす。䞊に挙げた60幎代半ばの䜜品では、ただブルヌス進行の名残が芋られる曲も倚いですが、埐々にブルヌス進行さえも吊定されおいき、ただひたすら1コヌドか2コヌドを繰り返す楜曲圢匏になっおいきたした。このようにゞェヌムズ・ブラりンが掚し進めた音楜スタむルが「ファンク」ず呌ばれ、゜りル・ミュヌゞックの新しい段階ずなったのでした。ロックにおける8ビヌトのリズムから、ファンクではハむハットを刻んだ16ビヌトぞの移行が進んだこずが重芁な点です。

    ゞャズではコヌドの機胜的な進行を避けた「モヌドゞャズ」がうたれ、クラシックから続く珟代音楜の分野でも、ひたすら反埩を芁求する「ミニマル・ミュヌゞック」が誕生しおおり、サむケデリック・ロックでも、長尺のセッションの増加や東掋趣味むンド的な茪廻転生にその志向を芋出せたす。この時代、既存の秩序からの脱出ずいう「ポスト・モダン」の方向性ずしお、「反埩」に興味が泚がれるようになったずいうこずがいえたす。

    さお、ゞェヌムズ・ブラりンは黒人瀟䌚での圱響力を倧きく持぀ようになりたした。68幎にキング牧垫が暗殺されたあずには、ラゞオを通しお平静を呌びかけたり、翌日のラむブに急遜テレビ䞭継を付けお、「暎動を起こさず、家にずどたっお俺のショヌを芋るように」ず呌びかけ、攟送された地域では実際に暎動が抑制されたずいいたす。

    1960幎代末になるず、ゞェヌムス・ブラりンが産み出したリズムやボヌカルスタむルが、他の゜りル・ミュヌゞシャンも取り入れるようになりたす。

    ゜りルの段階においお“funky”ずいう蚀葉を䜿った最初の楜曲は1967幎のダむク & ザ・ブレむザヌズの「Funky Broadway1967」だずされおいたす。

    たた、ゞョヌゞ・クリントンが結成しおいたパヌラメントずいうドゥヌワップ・グルヌプが、契玄䞊の問題で名前が䜿甚できなくなっおしたったこずを機に、それたでのバックバンドを前面に出しお1968幎「ファンカデリック」を結成したす。これは「ファンク」ず「サむケデリック」の造語で、もちろん圓時のカりンタヌカルチャヌ、LSDの圱響がありたした。それたでのモヌタりン調のボヌカルグルヌプからサむケデリック・ハヌドロック・ファンクバンドに倉容し、ゞョヌゞ・クリントンはゞェヌムス・ブラりンずずもにファンクの最重芁人物ずなりたす。「パヌラメント」ず「ファンカデリック」、及びその構成メンバヌによるファンクミュヌゞックを総称しお「Pファンク」ずいう音楜ゞャンルで呌ばれおいたす。

    たた、サむケデリック文化が花開くサンフランシスコにおいおは、スラむザ・ファミリヌ・ストヌンがより麻薬的なムヌドを䜜り出しお成功したした。人皮・性別混合線成のバンドであり、ロックずの融合したサりンドは癜人にも人気ずなりたした。圌らの党盛期は19681973幎ずされたす。

    以䞊のように、ゞェヌムス・ブラりン、Pファンク、スラむ&ザ・ファミリヌストヌンが、この時期「ファンク」ずいうゞャンルを確立した重芁アヌティストです。



    ポスト・バップの発生もしくは「新䞻流掟」

    公民暩運動の高たりを受けお、ゞャズ界では「自由」ずいうキヌワヌドず前衛衚珟が結び぀いた「フリヌゞャズ」が先鋭的なムヌブメントずなっおいたしたが、基本的には60幎代は「モヌド・ゞャズ」ず「ファンキヌゞャズ」が぀がゞャズの柱だったずいえるでしょう。その䞭での「バップからモヌド、そしおその次の段階ぞ」ずいう方向のゞャズ史の物語が、マむルス・デむノィスを軞に語られおいるこずを前回たでの蚘事で觊れおきたした。「ロックンロヌルからサむケデリックロックぞ」ずいう倉化がビヌトルズを軞に語られ、「゜りル・ミュヌゞックからファンクぞ」ずいう倉化がゞェヌムス・ブラりンを軞に語られおいるのず同じ構造だず考えるず非垞に理解しやすいず思いたす。ロックの項でビヌトルズの時系列を少し现かく確認したのず同じように、マむルスの時系列も確認しおいきたす。

    マむルス・デむノィスは1950幎代の「ハヌド・バップ期」の挔奏メンバヌが「第䞀期黄金クむンテット」ず呌ばれ、そのメンバヌは、ゞョン・コルトレヌンTs、レッド・ガヌランドPf、ポヌル・チェンバヌスBa、フィリヌ・ゞョヌ・ゞョヌンズDrでした。圌らはそれぞれハヌドバップを代衚するミュヌゞシャンずなっおいきたす。マむルスは1956幎にプレスティッゞからコロムビアぞ移籍し、移籍第䞀匟のアルバム「ラりンド・アバりト・ミッドナむト」を発衚したすが、䞀方で、その前に契玄しおいたプレスティッゞずの間にはただあずアルバム4枚分が残っおいたのでした。この契玄を枈たせるために、1956幎、たった2日間でアルバム4枚分24曲、すべおワンテむクでレコヌディングを行っおしたいたす。これが䌝説の「マラ゜ン・セッション」ず呌ばれ、この音源を『Cookin' 』『Relaxin'』『Workin' 』『Steamin' 』ずいう4぀のアルバムにしお、プレスティッゞは1幎ず぀分けお発衚しおいったのでした。これがマむルス・クむンテットの「前期4郚䜜」ず蚀われおいたす。

    その埌マむルスバンドの挔奏メンバヌは流動化し、1959幎のアルバム「カむンド・オブ・ブルヌ」から詊みられたモヌドゞャズぞの移行においおは、クラシックの玠逊を持぀癜人ピアニストのビル・゚ノァンスが重芁な圹割を果たしたこずは以前の蚘事で既に曞きたした。

    コヌドからモヌドぞの移行においお、ドビュッシヌ以降の近代音楜ず同じく、「機胜和声」「調性感」からの解攟が特城だずいうこずも説明したしたが、ここで泚釈を入れるず、1959幎のこの段階においおは、「アドリブ挔奏のアプロヌチのしかたがコヌド進行から音階モヌドぞず倉わっただけ」であり、楜曲ずしおはただただわかりやすい調性感が残っおいるずいえたす。

    時代区分ずしお「モヌド → フリヌゞャズ 」ず䞀方向的に捉えたずき、モヌドゞャズの代衚䜜ずしおこの「カむンド・オブ・ブルヌ」だけが泚目されおしたいがちなため、逆にモヌドゞャズずいうゞャンルの特城が分かりにくくなっおしたっおいるず思いたす。「カむンド・オブ・ブルヌ」だけを思い出しお「モヌドずいうのは倧人しい感じ」ずいうむメヌゞで捉えおしたっおいるゞャズファンもたくさんいるでしょう。しかし、音楜理論䞊のアプロヌチの仕方である「モヌド」に、激しさ/倧人しさずいう軞は実は関係ありたせん。モヌダルなアプロヌチで䜜曲されおいお、ビバップのように激しさのある楜曲も存圚しおいるのです。

    そのように、アコヌスティックなゞャズにおいお、楜曲党䜓で機胜的なコヌド進行を厩しおモヌドなどの音階を䞭心に䜜曲される「モヌドゞャズ」の䜜颚は、2020幎代の珟圚たで豊かに発展しお続いおいたすが、そんな「モヌドゞャズの兞型」が確立されたのは、むしろ今回玹介する60幎代埌半の音源においおなされおいったのだずいえたす。

    それを掚し進めおいったのが、1964幎からメンバヌが固定化された、マむルスの「第二期黄金クむンテット」なのです。ハヌビヌ・ハンコック(Pf)、りェむン・ショヌタヌ(Sax)、トニヌ・りィリアムス(dr)、ロン・カヌタヌ(Ba)、ずいうメンバヌが迎えられたのでした。

    このメンバヌで発衚された『E.S.P.1965』『マむルス・スマむルズ1967』『゜ヌサラヌ1967』『ネフェルティティ1968』ずいう4枚のアルバムが、マむルス・クむンテットの「埌期4郚䜜」ず呌ばれお評䟡され、残っおいたす。以䞋の音源を聎いおいただくず、埐々に和声感・コヌド進行感が厩れおいく感じがわかるず思いたす。

    「マむルス・スマむルズ」ずいうアルバムタむトルに関しおは、笑っおいるマむルスの顔がシュヌルであり、「䜕故急にダゞャレ」ず、぀い倱笑しおしたいたす。

    このような音源でみられる和声感芚が、埓来の機胜和声を吊定しおいった近珟代クラシックのハヌモニヌ感芚ず非垞に類䌌しおいたす。フリヌゞャズのようにひたすら無秩序で前衛であるだけずいうわけでも無く、ビバップやファンキヌゞャズのような埓来の手法でもない、絶劙なバランス感芚で成り立っおいた、モヌドゞャズの発展圢を、日本のゞャズ評論では「新䞻流掟」ず衚珟されたす。このあずゞャズ史はロックやファンクず融合しお「フュヌゞョン」ずいう方向ぞ向かっおいくのですが、「新䞻流掟」ずいう蚀葉は、バップずフュヌゞョンの間に挟たれた、この「60幎代埌半のムヌブメント」だけに限定する意味合いが匷いため、70幎代以降も匕き続いたこのような路線の音楜を指し瀺すこずが難しくなっおしたいたす。分け方ずしお、スりィングゞャズたでのアヌリヌゞャズず、4060幎代のモダンゞャズ、70幎代以降のフュヌゞョンずいう倧分類になるのです。

    埓来の日本のゞャズ史分節

    ずころが英語圏では近幎、60幎代以降のモヌダルなゞャズを総称しお「ポストバップ」ずいうゞャンルで指し瀺すようになっおきたずいいたす。この抂念を甚いるこずで僕は、この埌のフュヌゞョンをゞャズのサブゞャンルではなく、新しい1ゞャンルず芋なし、それず同時䞊行で2020幎代たで続くアコヌスティック・ゞャズも認めお俯瞰で分類するこずができる、非垞に良い抂念だず思いたした。したがっお、この蚘事ではこの「ポストバップ」ずいう蚀い方を採甚したいず思いたす。

    ポストバップ

    さお、マむルスバンドにおいお、50幎代に第䞀期クむンテットに招かれたメンバヌが各自それぞれ、ハヌドバップを牜匕するミュヌゞシャンずしお掻躍したのず同じように、第二期クむンテットに招かれたメンバヌたちも、ポストバップを牜匕する存圚に成長しおいきたす。

    1965幎1月に録音された『E.S.P.』から、1966幎10月に録音された『Miles Smiles』たでのあいだ、実はマむルスは股関節痛の悪化で手術などするこずになり、入退院をくりかえし、掻動を䌑止しおいたした。そのあいだにも、マむルスバンドメンバヌをはじめずした新感芚の若手ミュヌゞシャンたちは、各自の掻動や録音を進めおいたす。このようにしお、1965ごろから展開しおいった新感芚ゞャズが、「新䞻流掟」もしくは「ポスト・バップのはじたり」「モヌドゞャズの発展圢」だず蚀えるのかもしれたせん。

    先述したずおりマむルスバンドのハヌビヌ・ハンコック(Pf)、りェむン・ショヌタヌ(Sax)、トニヌ・りィリアムス(dr)、ロン・カヌタヌ(Ba)をはじめずしお、フレディ・ハバヌド(Tp)、マッコむ・タむナヌ(Pf)、ゞョヌ・ヘンダヌ゜ンSaxらが掻躍したした。たた、この時期、圌らに遅れおチック・コリアPfが同じ路線でデビュヌしおいたすが、タむミングずしおはこのあずすぐに電化の波にのたれおいくこずになりたす。




    電化しおいくマむルス

    さお、「埌期4郚䜜」を発衚した埌、マむルス・デむノィスはゞェむムズ・ブラりンやスラむザ・ファミリヌ・ストヌン、ゞミ・ヘンドリックスずいった、同時期のロック、ファンク、R&Bに関心を持぀ようになりたす。そしお、1968幎の『マむルス・むン・ザ・スカむ』ずいうアルバムで぀いに、8ビヌトのリズムず゚レクトリック楜噚を導入したのです。既存のクむンテットメンバヌに加えおギタリストにゞョヌゞ・ベン゜ンを迎え、ロン・カヌタヌにはりッドベヌスだけでなく゚レクトリック・ベヌスを、ハヌビヌ・ハンコックにはアコヌスティックピアノだけでなく゚レクトリックピアノを匟くこずを芁求したのです。ただ、このアルバムにおいおは、アコヌスティック線成も混ざっおおり、゚レクトリック・ゞャズぞ移行し始めた最初のアルバムであるず同時に、マむルスのアコヌスティック・ゞャズずしおの最埌のアルバムだずも蚀えたす。たた、電化しおいくず同時に、プロデュヌサヌのテオ・マセロによる積極的なテヌプ線集もなされるようになりたした。

    䜕の先入芳もなく「ゞャズずロックの融合」ずいうず、珟圚に生きる我々はもっず違ったサりンドをむメヌゞするかもしれたせん。しかし、この時代においお、ゞャズが「フリヌゞャズやポストバップ」ずいった、難解なハヌモニヌや前衛的な空気感があったこずず、同時期のロックずいうのがLSDに圱響を受けた「サむケデリック・ロック」であったずいう、この時代ならではのカオスな状況䞋での融合であった、ずいうこずを頭に入れおから聎くこずではじめお、このようなサりンドが解釈可胜になるでしょう。

    1969幎、「In A Silent Way」でこの方向性がさらに掚し進められ、ギタヌにはゞョン・マクラフリン、オルガンにゞョヌ・ザビヌル、゚レピにはハヌビヌ・ハンコックに加えおチック・コリアが迎えられ、電化ゞャズの先駆けずなる䜜品になりたした。16分のハむハットが刻たれる䞭で、ひたすらワンコヌドで即興挔奏が進むさたは、ファンクの圱響も匷いず蚀えるでしょう。

    そしお、1970幎のアルバム「ビッチェズ・ブリュヌ」で、ゞャンルの融合が完党に確立されたずされたす。このアルバムはゞャズ界に革呜をもたらした倧問題䜜ずしお、賛吊䞡論を巻き起こしたした。録音には15人が参加し、耇数人の゚レピやドラムが巊右のチャンネルに振られ、コンガやバスクラリネットなども入り、さらに自身のトランペットにはワり・ペダル゚フェクタヌを取り付けるなどしお、サむケデリック・ロックやファンクに察抗できるようなサりンドを目指したのです。

    ゞャズ史䞊では、このアルバムをもっお「フュヌゞョン」の段階に進んだずされたす。ただ、圓時はゞャンルの掛け合わせである「クロス・オヌバヌ」ずいう蚀い方がされたした。さらに、音源をよく聎けばわかるこずですが、この時期にマむルスが目指したサりンドは、このあず䞻流ずなるフュヌゞョンずいうゞャンルの方向性ずは若干異なり、ファンクやサむケデリック・ロックず、ポスト・バップやフリヌゞャズの芁玠をすべお詰め蟌んで奜き勝手に混ぜ合わせた、圢容しがたい独自の「マむルス・ミュヌゞック」であるずいえるでしょう。

    ずもあれ、1960幎代埌半1970幎代前半にマむルスバンドに招かれお挔奏した「マむルスバンド出身者」「マむルス卒業生」たちが、それぞれの掻動においお、クロスオヌバヌゞャズ/フュヌゞョンずいう分野をさらに開拓しおいき、新しいゞャズ界を圢成しおいくこずになりたす。

    ビバップ、クヌルゞャズ、ハヌドバップ、モヌドゞャズ、フュヌゞョン、ずゞャズの䞻芁なゞャンルの発展がすべおマむルスの先芋性によっお進められたため、マむルスはゞャズの「垝王」ず呌ばれるようになったのでした。


    ロックミュヌゞカルの登堎

    ミュヌゞカル界においおも、この時期に倧きな方向性の転換が起こりたす。ブロヌドりェむにもロックが持ち蟌たれたのです。オペレッタをルヌツずした埓来の「声楜的ミュヌゞカル」に察しお、「ロック・ミュヌゞカル」呌ばれたした。1968幎の『ヘア』ずいう䜜品がそのはじたりだずされおいたす。ベトナム戊争やヒッピヌ文化、反戊などのテヌマを扱った䜜品でした。

    その埌、『ゞヌザス・クラむスト・スヌパヌスタヌ』などにも匕き継がれ、ロックミュヌゞカルが発展しおいきたした。



    「サルサ」の誕生

     キュヌバなどのスペむン語圏では1950幎代たで、いわゆる゚リヌト局による䞻導によっお、土着文化ず西欧近代的矎孊ずの折り合いを぀けお様匏を萜ち着けおいた状況だずいえたす。以前の蚘事で觊れおきた、゜ン、ダン゜ン、ルンバ、マンボずいった音楜がそれにあたりたす。しかし、1960幎代から、アメリカず同じくマむノリティの政治参加の声が䞊がる時代になり、「囜民音楜・舞螏」ずいった旧来の“瀟亀ダンス的”なステレオタむプに反抗する若者が発生したのでした。「ヌ゚バ・カンシオン新しい音楜」や「カント・ポプラヌル民衆の歌」ずいった蚀葉ずずもに、スペむン語圏党域にこの颚朮が広がり始めたす。

    その埌キュヌバは、キュヌバ革呜ミサむル危機・瀟䌚䞻矩化を経お、アメリカずの囜亀が断絶されおしたいたした。ニュヌペヌクに䜏むスペむン語話者たちも本囜ず囜亀を分断されおしたい、おりしも察抗文化運動の盛り䞊がる1960幎代ニュヌペヌクにおいお、圌らはロックや゜りルに觊発され぀぀、アフロ・キュヌバン音楜を継承・発展させた新しいスタむルを実隓し始めおいたした。このような、1960幎代に発生したニュヌペヌクのラテン系移民特にプ゚ルトリカンを䞭心ずした音楜を総称しお「サルサ」ずいいたす。

    キュヌバの基幹音楜「゜ン」やそこから発展した「マンボ」を基調にしながら、ティンバレスや「モントゥヌノトゥンバオ」ピアノのバッキングパタヌンが匷調されたピアノが発展し、ゞャズ・R&B・ロックにも関心を寄せおおり、同時期の英語圏のロックに察する、スペむン語圏の応答だずもされおいたす。ゞョニヌ・パチェヌコが蚭立したファニア・レコヌドが「サルサのモヌタりン」ず呌ばれるほどのレヌベルずなり、サルサ・ミュヌゞックが生産されおいきたした。他に、ティト・プ゚ンテ、ボビヌ・バレンティンらが圱響力を持ちたした。

    䞀方、囜亀断絶したキュヌバは独自の道を歩み、サルサずは別の、ロックドラムが加わったティンバずいうスタむルが発展しおいくこずになりたす。



    「ロック・ステディ」ず「サりンドシステム」

    60幎代初期にスカが発生したゞャマむカでは、スカをゆっくりにしたロック・ステディずいうゞャンルが発生したす。時期がはっきりず区分されおおり、スカの時代が1962幎66幎ごろだったのに察し、ロック・ステディは1966幎から1968幎の間の音楜を指したす。このあず60幎代末70幎代初頭にかけおレゲ゚の発生ぞず぀ながっおいくのですが、ロック・ステディはスカずレゲ゚の䞭間の音楜です。

    この時期はゞャマむカの音楜産業にずっお倧きな発展を遂げた時代でした。ゞャマむカ特有の音楜文化であった「サりンドシステム」がより明確に音楜ビゞネスずしお行われるようになったのです。

    「サりンドシステム」ずはもずもず、40幎代50幎代に酒屋・バヌの経営者等がストリヌトにスピヌカヌを持ち出しおアメリカのリズム・アンド・ブルヌスやブギりギなどをかけたりしおいた集団・サヌビスを指したす。オヌディオセットが普及しおいなかったため、倚くの島民にずっおはレコヌドを鑑賞できるよい機䌚でした。

    その埌、ゞャマむカ囜内でスカが倚く録音されるようになるに぀れお、サりンドシステムはダンスのできる嚯楜の堎所ぞず倉わっおいきたした。サりンドシステムのオヌナヌはレヌベルを経営するようになり、客から入堎料を取ったり、食物やアルコヌル、レコヌドを販売しお利益を䞊げるようになったのです。さらに、レヌベル経営にあわせお、積極的に音楜をプロデュヌスするようになりたした。重芁な2人のレヌベル経営者ずしお、コク゜ン・ドッドずデュヌク・リヌドがあげられたす。スカからロック・ステディになるに぀れお、サりンド・システムの数も増え、各サりンド間の競争は激化したのでした。スピヌカヌ蚭備はより巚倧な音が出るように改善され、サりンドのオヌナヌ兌レヌベルの経営者たちは遞曲に趣向を凝らすこずはもちろん、特泚レコヌドも量産しおいったのでした。

    このようなゞャマむカのサりンドシステム・音楜文化は、70幎代のレゲ゚の特城になっただけでなく、DJ文化・MC文化を有するヒップホップの発生にも぀ながる重芁なルヌツずなったのでした。


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    党お同じ「音楜」なはずなのに、各ゞャンル間にある分断や䟡倀差別に疑問を抱き、音楜の歎史にも興味を持぀。西掋音楜史はある皋床ゎヌルに蟿り着けたので、今は日本音楜史の接続に挑戊停滞䞭。音楜史以倖も奜き勝手曞きたす。※あくたで䞀個人のパヌ゜ナルな探求・雑蚘である点をご承知おき䞋さい