
51. 例外の世界――法律は法律であって、信仰の前では法律ではない
私はSDA教会の家庭に生まれ、幼い頃から、神の教えに従うことの大切さを繰り返し聞かされてきました。
しかし、不思議なことがありました。
教会の外では法律を守らなければならないのに、教会や家族の中では、信仰を理由に別のルールが持ち出されるのです。
第6回、第7回では、大人に「なぜ」と尋ね、理解しようとすることさえ問題視された経験を書きました。
第21回では、法律と信仰のどちらが優先されるのかという疑問を取り上げました。
その疑問は、大人になっても終わりませんでした。
SDA教会の信仰を持つ身近な人物とのやり取りでも、同じような疑問を抱くことになったのです。
2023年、私は家族間の問題について、宗教的な立場から離れ、弁護士を通じて整理することを提案しました。保存しているLINEには、弁護士費用を誰が負担するのか、誰が弁護士を選ぶのかといったやり取りが残っています。
私は、宗教と会社の問題を切り分ける必要があると説明しました。
ところが、その後の経緯について、私が教団関係者に送ったメールには、相手から「職場に弁護士を送りつけて解雇してやる」という趣旨の発言を受けたとの記録が残っています。
私は驚きました。
弁護士とは、権利を守り、紛争を法的に解決するために相談する相手ではないのでしょうか。
なぜ、その弁護士が、相手を怖がらせるための道具として語られるのでしょう。
さらに、メールには、相続について「お前が悔い改めたら相続放棄してやる」という趣旨の発言を受けたとの記録もあります。
悔い改めるかどうかは、宗教上の問題です。
相続や財産に関する権利義務は、法律上の問題です。
なぜ、この二つが結びつくのでしょうか。
第34回では、正しさを語りながら責任を語らない大人たちについて書きました。第35回では、祈りという言葉によって怒りが扱われなくなる経験を取り上げました。
第48回では感情の自由、第49回では食生活の選択、第50回では「生まれながらの罪人」という言葉について考えました。
振り返れば、共通しているのは、誰がルールを決め、誰にだけ適用するのかという問題です。
もちろん、相手方の個々の発言について、法律上どのような評価が成立するかは、証拠と具体的な事情に基づいて判断されるべきです。
しかし、少なくとも私は、信仰を理由に威圧的な言動が正当化されることを受け入れられません。
信教の自由は、誰にでもあります。
同時に、信仰を持たない自由も、外部に助けを求める自由もあります。
法律は法律であって、信仰の前では法律ではない。
私が経験した世界では、そんな奇妙な例外があるかのように感じることがありました。
しかし、信仰を持つかどうかによって、法律上の権利や責任が消えるわけではありません。
私が求めているのは、特別扱いではありません。信仰を持つ人にも、持たない人にも、同じルールを適用してほしい。ただ、それだけなのです。