
50. 例外の世界――罪は罪であって、大人の行為は罪ではない
私はSDA教会の家庭に生まれ、幼い頃から「人は生まれながらの罪人である」と繰り返し教えられてきました。
第2回で書いたように、私はSDAの病院で生まれました。そして第4回「神様が見ている」で書いたように、物心がつく頃には、「悔い改めろ」「神を恐れろ」という言葉が日常の一部になっていました。
ところで、私は不思議に思っていました。
生まれながらの罪人とは、いったい何なのでしょうか。
まだ何もしていない子どもが罪人だというのなら、何を悔い改めればよいのでしょう。
第6回「なぜ、と聞く子ども」、第7回「理解しようとすることは、なぜいけない」で書いたように、私は大人たちに理由を尋ねていました。
しかし、理解しようとすること自体が罪であるかのように扱われることがありました。
罪人だから悔い改めなさい。
なぜ罪人なのかと尋ねれば、信仰が足りない。
では、何も尋ねずに従えば、罪人ではなくなるのでしょうか。
どうやら、そうでもありません。
第8回、第9回では、祈りの言葉にまで大人が介入し、最後には「自分で祈ったね」と確認される経験を書きました。
罪人である子どもには、自分の言葉で祈ることさえ難しかったのです。
一方で、大人たちはどうだったのでしょう。
第15回では「他人のために生きなさい」、第21回では「法律と信仰、どちらが上だったのか」という問題を書きました。
他人を愛しなさい。正しく生きなさい。神を恐れなさい。
そう教える大人たち自身の言動について疑問を呈すると、今度は信仰や家族という言葉が持ち出される。
メールの記録には、私が家族から長年「悔い改めろ」と言われ続けたことや、信仰を理由に相手を信頼するよう求められたことへの抗議が残っています。
私には、そこに奇妙な非対称性があるように見えました。
私が経験した世界では、子どもの疑問や反発は、罪であるかのように扱われることがありました。
その一方で、大人自身の威圧的な言動は、信仰や教育、家族への配慮として説明されることがありました。
第34回「正しさを語り、責任を語らない」、第35回「祈りによって消された怒り」で書いた問題も、ここにつながっています。
もちろん、キリスト教における罪の教理そのものと、個々の大人の言動は区別する必要があります。私が問題にしているのは、教理を理由に子どもの疑問や感情を封じ、大人自身の責任まで曖昧にしてしまうことです。
第48回では「好き」という感情、第49回では食べ物を選ぶことについて書きました。
そして今回は、もっと根本的な話です。
生まれた瞬間から罪人だと言われた子どもに、自分は悪くないと考える自由はあったのでしょうか。
罪は罪であって、大人の行為は罪ではない。
私が育った世界では、そんな奇妙な例外があるかのように感じることがありました。
子どもには悔い改めを求めながら、大人自身の言動については、信仰や教育という理由で責任が曖昧にされる。私には、そのような非対称性があったように思えるのです。
私が知りたかったのは、誰が天国に行くのかではありません。
なぜ、まだ何もしていない子どもが悔い改めを求められ、実際に行動した大人の責任は問われないのか。
ただ、それだけのことでした。