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【超訳世界神話】イリオス

    戦争になった。

    いや。

    別に私が始めたわけじゃないですよ?

    確かに、あのとき私はパリスさんに言いました。

    私を選んでくれたら、世界で一番美しい女性をあなたのものにしてあげます、と。

    で。

    パリスさんは私を選んだ。

    私は約束を守った。

    その女性が、たまたま人妻で。

    まあ、いろいろあって。

    戦争になった。

    ちなみに、アテナさんとは、あれ以来ちょっと気まずい。

    ちょっとです。

    たぶん。

    私が勝ったのは正式な審判の結果ですし、パリスさんが自分の意思で私を選んだわけですから、別に私が悪いわけではない。

    アテナさんも知恵の女神なんだから、そのくらい理解しているはずです。

    理解しているはずなんですけど。

    なんというか。

    たまに目が怖い。



    その日。

    戦場には、ディオメデスという男がいた。

    めちゃくちゃ強い。

    というか。

    今日、いつもより強くないですか?

    何あれ。

    あ。

    アテナさんいる。

    なるほど。

    アテナさんとこの舎弟ですね。

    「誰が舎弟だ」

    聞こえてた。

    アテナさんは、ディオメデスのそばに立っていた。

    「神(アイツら)には手ェ出すな……」

    低い声が響く。

    「テメェが“触”る相手じゃねぇ」

    …………。

    「ただし――」

    嫌な予感がした。


    「アフロディーテ」


    え。


    「アイツぁ“別”だ……」


    え?

    私だけ!?

    待って。

    なんで!?

    絶対まだ根に持ってるじゃないですか!



    その少しあと。

    ディオメデスが、アイネイアスを追い詰めた。

    石が飛んだ。

    アイネイアスが倒れた。

    気づいたときには、私は走っていた。

    戦場なんて嫌いだ。

    剣とか槍とか飛んでくるし。

    痛いし。

    怖いし。

    そもそも私は、こういうところに来る神じゃない。

    私は倒れたアイネイアスを抱きかかえた。

    自分の衣で包む。

    とにかく、ここから連れ出す。

    そのときだった。

    鋭いものが、手を貫いた。


    「いっっったぁ!!!!」


    痛い痛い痛い痛い!

    何!?

    何ですか今の!?

    手を見る。

    傷。

    嘘。

    神が、人間に傷つけられた。

    顔を上げる。

    ディオメデス。

    こいつ。

    人間のくせに。

    いや。

    待って。

    こいつ、アテナさんとこの舎弟ですよね?

    しかもアテナさん、さっき言ってましたよね?

    “神には手を出すな”。

    “ただしアフロディーテは別”。

    つまり。


    これ実質アテナさんが刺したようなものでは!?



    「アテナさん!!」


    見つけた。

    私はまっすぐ向かっていった。

    手はまだ痛い。

    めちゃくちゃ痛い。

    でも今はそれどころじゃない。

    「ちょっとどういうことですか!?」

    「あ?」

    「私だけ別って何ですか!?」

    「…………」

    「神には手を出すなって言ったんですよね? なのに私だけ刺していいって、それどう考えてもおかしいですよね?」

    「…………」

    「これ、パリスさんの件ですよね?」

    アテナさんの眉が動いた。


    やっぱり。


    「いや、気持ちは分かりますよ? 負けたの悔しかったでしょうし。でもあれ、正式な審判ですからね?」

    「…………」

    「私が勝手に決めたわけじゃないです。パリスさんが選んだんです」

    返事がない。

    「それに戦争だって、私が始めたわけじゃありませんからね?」

    まだ黙っている。

    「確かにヘレネさんのことを持ち出したのは私です。でも、そもそもあの審判を始めたの私じゃないですし。黄金の林檎を投げたのも私じゃない。審判役をパリスさんにしたのも私じゃない」

    アテナさんの目が細くなった。

    「それに、実際に戦争を始めたのは人間ですからね?」

    「…………」

    「で、今日、私を刺したのはディオメデスです」

    「…………」

    「つまりですね、いろんな人の判断が積み重なった結果なわけですよ。なのに私だけ狙わせるのは、さすがに私怨というか――」


    「“黙”れ」


    止まった。

    怖!

    やっぱりこの人、パリスさんの件めちゃくちゃ根に持ってる!

    アテナさんが私を見る。


    「誰が“選”んだ……」


    「……え?」


    「誰が“始”めた……」


    声は低い。

    怒鳴ってはいない。


    「誰が“刺”した……」


    …………。


    「テメェは?」


    何も言えなかった。

    いや。

    言える。

    言おうと思えば、いくらでも言える。

    黄金の林檎を投げたのは私じゃない。

    審判を始めたのも私じゃない。

    褒美を提示したのだって私だけじゃない。

    パリスさんが私を選んだ。

    ヘレネさんを連れていったのも私じゃない。

    戦争を始めたのは人間たちだ。

    私を刺したのはディオメデス。

    全部、本当だ。

    「……でも」

    口を開く。

    「全部、私のせいじゃないですよね」

    アテナさんは黙っていた。

    「…………」

    そして。


    「誰が“全部”っつったよ」


    …………。

    まだ言える。

    言えることは、たくさんあった。

    でも。

    それを今、もう一度並べたら。

    「…………」


    手が痛い。

    さっき刺されたところが、ずきずきする。 


    でも。

    今はそこじゃない。


    「……はい」




    戦いは続いた。

    長く。

    とても長く。

    英雄が倒れた。

    神々が介入した。

    人間たちは戦い続けた。

    勝ったり。

    負けたり。

    憎んだり。

    助けたり。

    それでも戦争は終わらなかった。

    そして。


    イリオスは滅びた。




    夕暮れ。

    私は崩れた石壁に腰掛けていた。

    なんというか。

    ちょっと落ち込んでいた。

    別に全部、私のせいじゃない。

    それは本当だ。

    でも。

    だからって、私の分までなくなるわけじゃない。

    分かってますよ。

    もう。

    分かってます。

    足音がした。

    顔を上げる。

    アテナさんだった。


    「…………」


    最悪。

    今あんまり会いたくない。

    私は目を逸らした。

    「……まだ、お説教ですか」

    返事はなかった。

    代わりに、アテナさんが目の前まで来る。


    「手ぇ出せ」


    「……はい?」

    「手」

    何ですか。

    まだ何かあるんですか。

    おとなしく手を出す。

    アテナさんが、その手を取った。

    「怪我してんだろうが」


    「…………」


    白い布が巻かれていく。

    黙ったまま。

    傷の上を覆っていく。


    「…………」


    いや。


    待って。


    夕暮れ。


    二人きり。


    ずっと相性が悪くて。


    会えばだいたい揉めて。


    今日なんて、あんなに怒られて。


    そのアテナさんが。


    何も言わず。


    私の手を――


    「……………………」


    いやいや。

    それは、解釈違いです。

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    ※ここから先は、本編の出典となった神話、本作における脚色・人物解釈、用語についての解説です。

    本編だけでも物語としてお楽しみいただけますが、ここから先を読むと、少し違った見え方になるかもしれません。

    長くなりますので、気になる項目だけでもどうぞ。


    【出典と神話解説】

    本作前半は、主にホメロス『イリアス』第五歌をもとにしています。

    ただし、『イリアス』そのものを現代風に置き換えた作品ではありません。

    『イリアス』第五歌の一場面から始まり、その後は、より広いトロイア戦争の伝承へ時間を進めています。


    ■イリオス/『イリアス』

    イリオス(Ἴλιος)は、ギリシア神話に登場する都市トロイアの別名です。

    一方、『イリアス』(Ἰλιάς)は、ホメロスの作と伝えられる古代ギリシアの英雄叙事詩。

    その題名はイリオスに由来し、「イリオスの歌」といった意味を持ちます。

    ただし、『イリアス』が描くのはトロイア戦争の全期間ではありません。

    十年に及ぶ戦争の末期、その一時期を切り取り、アキレウスの「怒り」を中心に描いた物語です。

    そのため、有名な「トロイアの木馬」やイリオスの陥落も、『イリアス』本編には描かれていません。

    本作の題名を『イリアス』ではなく『イリオス』としたのも、このためです。


    ■トロイア戦争

    ギリシア神話において、ギリシア諸勢力とトロイアとの間で行われた大戦争。

    その発端を遡っていくと、前作『パリスの審判』へ繋がります。

    ヘラ、アテナ、アフロディーテ。

    三柱の女神のうち、誰が最も美しいのか。

    審判を任されたトロイアの王子パリスは、世界で最も美しい女性を与えると約束したアフロディーテを選びます。

    その女性が、スパルタ王メネラオスの妻ヘレネでした。

    ただし当然ながら、

    「アフロディーテが人妻を賞品にしたので戦争になった」

    だけで十年戦争を説明できるわけではありません。

    ヘレネをめぐる伝承、パリスの行動、ギリシア諸王の関係、神々の介入など、多くの要素が積み重なってトロイア戦争の物語は形成されています。

    本作のアフロディーテが、

    「いや。別に私が始めたわけじゃないですよ?」

    と言っていること自体は、間違いではありません。


    ■ディオメデス

    ギリシア側を代表する英雄の一人。

    『イリアス』第五歌では、ほとんど主役と言っていいほどの活躍を見せます。

    アテナはディオメデスに力と勇気を与え、さらに神と人間を見分ける力まで授けます。

    そして、神々とは戦わないよう命じます。

    ただし――


    アフロディーテだけは別。


    彼女が戦場へ現れたなら、青銅の武器で傷つけてもよい。

    本編に登場する、

    「アテナさんとこの舎弟」

    は、もちろん本作独自の呼び方です。

    ただし、ディオメデスがアテナから直接加護を受け、その指示のもとで戦っていること自体は原典に基づいています。


    ■アイネイアス

    トロイア側の英雄。

    父は人間のアンキセス。

    母は――アフロディーテです。

    『イリアス』第五歌では、ディオメデスが巨大な石をアイネイアスへ投げつけ、彼を瀕死の状態に追い込みます。

    それに気づいたアフロディーテは、すぐさま戦場へ入ります。

    両腕で息子を抱き、自らの衣を広げ、敵の槍からその身体を庇いました。


    ■アフロディーテ、戦場へ

    アフロディーテは、基本的に戦争を専門とする女神ではありません。

    『イリアス』でも、ゼウスから戦争はアレスとアテナに任せ、自分は結婚の営みに携わるよう言われています。

    それでも、アイネイアスが危機に陥ったとき、彼女は自ら戦場へ入りました。

    戦って敵を倒すためではありません。

    息子を連れ出すためです。

    そして、自分の身体と衣で彼を守ります。

    本作ではかなり情けない悲鳴を上げたり、全力で嫌がったりしていますが、危険な戦場へ飛び込んでアイネイアスを庇ったこと自体は、脚色ではありません。


    ■アフロディーテの負傷

    アイネイアスを救出するアフロディーテを、ディオメデスは追います。

    彼には、相手が神であることが分かっています。

    そして何より、アテナからアフロディーテだけは攻撃してよいと告げられています。

    ディオメデスの槍はアフロディーテの衣を貫き、その手を傷つけました。

    傷口から流れたのは、人間の血ではありません。

    神々の身体を流れる「イーコール(ichor)」です。

    アフロディーテは叫び、アイネイアスを取り落とします。

    その後、アイネイアスはアポロンによって救われました。

    つまり本編の、

    「神が、人間に傷つけられた。」

    という出来事そのものが、『イリアス』第五歌にあります。


    ■なぜアフロディーテだけ?

    アテナはディオメデスに、

    ほかの神々とは戦うな。

    ただしアフロディーテは例外。

    と命じています。

    これは原典にあります。

    では、なぜアフロディーテだけなのか。

    本作のアフロディーテは、すぐにこう考えました。

    ――パリスさんの件、まだ根に持ってる。

    しかし、『イリアス』第五歌では、アテナ自身がその理由を明確に説明しているわけではありません。

    したがって、

    「パリスの審判で負けた私怨からアフロディーテを狙わせた」

    と断定することも、

    逆に、

    「パリスの審判とはまったく関係がない」

    と断定することも、本作ではしません。

    アテナは理由を語らない。

    アフロディーテは勝手に解釈する。

    本編では、その余白をそのまま利用しています。


    ■負傷したアフロディーテ

    負傷したアフロディーテは戦場を離れ、オリュンポスへ戻ります。

    そこで彼女を迎えるのが、母ディオネです。

    アフロディーテは、人間であるディオメデスに傷つけられたこと、それもアイネイアスを戦場から救い出そうとしていたところを攻撃されたことを訴えます。

    ディオネは娘を慰め、傷口からイーコールを拭い、その傷を癒します。

    つまり、原典でアフロディーテの傷を手当てするのはアテナではありません。


    ■そしてアテナは

    そのころ。

    アテナとヘラは、負傷して戻ってきたアフロディーテを見ています。

    そしてアテナは、ゼウスにこんな趣旨の皮肉を言います。


    アフロディーテはきっと、ギリシアの女性をトロイア側へ連れていこうとして、服の留め具に手を引っかけたのでしょう。


    もちろん、本当はディオメデスに傷つけられたことを知っています。

    かなり嫌味です。

    本作では、アテナを「物事を分けて考える」「細部ではなく構造を見る」人物として描いています。

    しかし、これは原典のアテナが常に冷静、公平、合理的な人格者だという意味ではありません。


    『アラクネ』でもそうでしたが、

    神話のアテナは、普通に怒ります。

    普通に私情も見せます。

    そして、かなり容赦がありません。


    ■イリオスの陥落

    『イリアス』第五歌のあとも、戦争は続きます。

    しかし『イリアス』は、イリオスの陥落までを描きません。

    物語はヘクトルの死後、その遺体を父プリアモスが引き取り、葬儀を行うところで終わります。

    その後のトロイアの木馬、都市への侵入、そしてイリオスの陥落は、より広いトロイア戦争の伝承に属する物語です。

    本作では、その長い過程をすべて省略しました。

    戦いは続いた。

    長く。

    とても長く。

    そして。

    イリオスは滅びた。


    【本編について】

    ■原典にあるもの

    アテナがディオメデスに力を与えること。

    神々とは戦わないよう命じながら、アフロディーテだけを例外とすること。

    ディオメデスがアイネイアスを追い詰めること。

    アフロディーテが彼を救うため戦場へ入り、自らの衣で庇うこと。

    そして、ディオメデスがアフロディーテを傷つけること。

    ここまでは、『イリアス』第五歌に描かれています。


    ■本作における超訳

    負傷したアフロディーテがアテナへ直接抗議する場面。

    そして、

    「誰が“選”んだ……」

    「誰が“始”めた……」

    「誰が“刺”した……」

    「…………」

    「テメェは?」

    という、責任をめぐる二人の問答。

    これは本作の超訳です。

    原典に、このような対話はありません。


    また、本編ではその後の長い戦争を大幅に省略し、『イリアス』の範囲を越えて、イリオスの陥落まで時間を進めています。


    ■最後の場面

    滅びたイリオスで、アテナがアフロディーテの傷に包帯を巻く。

    これも完全に本作の脚色です。

    先述した通り、原典でその傷を癒すのはディオネ。

    アテナはむしろ、その負傷を皮肉っています。

    つまり原典に、

    「戦いのあと、アテナがアフロディーテの傷を手当てした」

    という場面はありません。

    そこは完全に、本作のお話です。

    ただし。

    その場面でアテナが何を考えていたのか。

    なぜ手当てをしたのか。

    二人の関係が何か変わったのか。

    そこについても、本作は何も決めていません。

    描いたのは、

    怪我をしているアフロディーテと、

    その傷に黙って布を巻くアテナ。

    そこまでです。

    その先をどう見るかは、

    アフロディーテを含め、

    見る側の問題です。


    【本作における人物解釈】

    ■アフロディーテ

    本作のアフロディーテは、美と愛を司る女神です。

    そして、できれば自分は物語の主役になりたくありません。

    『ピュグマリオンとガラテア』では、他人の関係を勝手に観測し、勝手に解釈し、勝手に感動した末、


    「床のチリになりたい」


    という結論に達しました。

    他人の物語を見るのは大好きです。

    ただし、そこに自分が入るのは嫌です。

    『パリスの審判』以降、そんな彼女自身が少しずつ物語の当事者になっていきます。

    ヘレネを褒美として提示したのはアフロディーテ。

    しかし、彼女を選んだのはパリス。

    ヘレネを連れていったのもパリス。

    戦争を始めたのは人間たち。

    今回、自分を傷つけたのはディオメデス。

    全部、本当です。

    本作のアフロディーテは、嘘をついているわけではありません。

    問題は、その並べ方です。

    事実をひとつずつ丁寧に分解していくうちに、いつの間にか自分だけが物語の外へ出ています。


    「全部、私のせいじゃない」


    それも、本当です。

    だからアテナは、


    「誰が“全部”っつったよ」


    と返しました。

    全部を背負え、という話ではありません。

    ただ、自分が選んだことまで他人の物語にしてはいけない。

    他人の物語なら驚くほどよく見える。

    けれど、自分が登場人物になった瞬間、途端に見えなくなる。

    あるいは。

    見えているからこそ、見ないようにしているのかもしれません。


    ■アテナ

    本作のアテナは、知恵と戦い、そして技芸を司る女神です。

    そして、ヤンキーです。

    『パリスの審判』では、アフロディーテの「愛の勝利」に身も蓋もない指摘をし、

    『アラクネ』では、真正面から勝負を挑んできたアラクネの技量を、

    「巧ぇな……」

    と認めました。

    その一方で、織物を破り、本人を何度も打っています。

    腕は腕。

    喧嘩は喧嘩。

    本作のアテナは、物事をあまり混ぜません。

    だから今回も、アフロディーテの長い弁明にひとつずつ反論しません。

    彼女の言っていることは、だいたい事実だからです。

    アテナが見ているのは、その話の中にアフロディーテ自身がいるかどうか。


    「誰が“選”んだ……」

    「誰が“始”めた……」

    「誰が“刺”した……」

    「…………」

    「テメェは?」


    細かい事情を削っていく。

    最後に残ったものを見る。

    それが、本作における「知恵の女神」アテナです。

    ただし。

    別に人格者ではありません。

    前作『アラクネ』をご覧ください。

    普通に理不尽です。


    ■アフロディーテとアテナ

    この二人は、かなり相性が悪いです。

    アフロディーテは、関係に意味を見つけたがります。

    あの言葉にはどんな意味があったのか。

    あの行動にはどんな感情があったのか。

    二人はどういう関係なのか。


    一方、本作のアテナは、そんなことをいちいち説明しません。

    怪我をしている。

    だから手当てする。

    本作が確実に示しているのは、そこまでです。

    許したのか。

    心配したのか。

    少し見直したのか。

    本当に怪我をしていたから手当てしただけなのか。

    分かりません。

    本人が何も言っていないからです。


    そして、そんな相手を目の前にすると、アフロディーテは困ります。

    彼女は、言葉になっていないものを読むのが大好きです。


    夕暮れ。

    二人きり。

    散々怒られたあと。

    何も言わずに手を取られ、傷を手当てされる。

    いつもの彼女なら、喜んで解釈を始めるところです。

    ただし。

    今回は、

    観測対象の片方が自分でした。

    「…………」

    「いやいや。」

    「それは、解釈違いです。」

    何が「解釈違い」だったのか。

    それについて、本作は回答しません。


    彼女は他人の物語なら、どこまでも読みたがる女神です。

    けれど、自分の物語だけは、できれば床のチリから眺めていたい。


    残念ながら今回は、

    そこまで離れた席を用意してもらえなかったようです。


    【用語解説】

    ■舎弟

    本来は、兄貴分に対する弟分。

    本作では、アフロディーテがディオメデスを指して、

    「アテナさんとこの舎弟」

    と呼んでいます。

    もちろん、神話上の正式な関係ではありません。

    ただし『イリアス』第五歌において、ディオメデスがアテナから直接力を与えられ、強力な支援を受けていること自体は事実です。

    なお、アテナ本人は、

    「誰が舎弟だ」

    と否定しています。


    ■CP

    カップリング。

    キャラクターや人物同士の関係性を、組み合わせとして捉えるファン文化上の表現です。


    本作のアフロディーテは、これが大好きです。


    混ぜるな危険。

    ギャップ萌え。

    美女と野獣。

    犬猿。

    因縁。

    正反対の二人。


    本人の好みに刺さる関係性を発見すると、急激に語彙が増えます。

    ただし。

    自分がその中に入ることは想定していません。


    ■ナマモノ

    同人・ファン文化において、実在する人物を題材とする創作などに使われる言葉。

    実在する本人や関係者を扱う性質上、本人・関係者の目に触れないための配慮や、検索から容易に辿られないための工夫などが重視されてきた領域でもあります。

    なお。

    神々が「ナマモノ」に該当するかどうかについて、一般的な定義はありません。

    本作のアフロディーテにとっては、

    普通に知人です。

    そのため彼女は、自分の身近にいる神々を勝手にCPとして解釈することについては、


    「ナマモノはギルティ」


    と考えています。

    意外ですが、一応倫理観はあります。


    ■壁/床のチリ

    詳しくは『ピュグマリオンとガラテア』用語解説「壁」の項を参照。

    好きな二人の関係に自分は介入せず、ただ観測していたい。

    存在を認識されることすら望まない。

    そんな願望を表す「壁になりたい」という表現があります。

    本作のアフロディーテは、

    壁でも主張が強いと判断しました。

    その結果たどり着いた理想の観測位置が、

    「床のチリ」

    です。

    他人の関係性は見たい。

    自分は関わりたくない。

    なお本作では、本人の希望に反してかなり当事者側へ配置されています。


    ■解釈違い

    自分が考えているキャラクター像や関係性と、別の解釈が一致しないこと。

    『ピュグマリオンとガラテア』では、

    「異論は認めない。解釈違いです。私が愛の神です。」

    と、自分の解釈を守るために使っていました。

    今回も登場します。

    ただし。

    最後の、


    「それは、解釈違いです。」


    が何に対する言葉だったのかについては、

    本人が説明していないため、本作からも回答しません。


    ■愛義奏(アイギス)

    本作のアテナが身につけている特攻服には、

    「愛義奏」

    と刺繍されています。

    読みは、アイギス。

    アイギス(Aigis/Αἰγίς)は、ギリシア神話に登場する神聖な防具です。

    伝承によって細部は異なりますが、ゼウスやアテナと結びつけられ、とりわけアテナの持つ恐るべき防具として知られています。

    本作では、それをアテナらしく、

    特攻服の刺繍へと超訳しました。

    したがって、

    「愛」

    「義」

    「奏」

    という三文字それぞれに、神話上の特別な意味があるわけではありません。

    ありません。

    ただし。

    本作には、愛を司る女神が一柱います。

    そしてアテナは、少なくとも本作では、筋や義理をかなり重んじるヤンキーです。

    愛。

    義。

    そして、

    奏。

    ……何を奏でるのでしょうか。

    なお。

    本作のアフロディーテは、他人の言葉や仕草、関係性に、何かと意味を見つけたがる女神です。

    そんな彼女が、

    「愛義奏」

    という三文字にまで、何か余計な意味を見つけてしまったかどうかについては、

    本作は回答しません。


    ■脳を焼かれる

    作品、キャラクター、関係性などから強烈な衝撃を受け、それが頭から離れなくなるような状態を表すインターネット上の俗な表現。

    さて。

    ここで本作のアフロディーテについて確認しておきます。

    彼女は、


    因縁のある二人。

    犬猿の仲。

    正反対の性格。

    口下手な強面。

    普段は相性が悪いのに、ふとした瞬間だけ見える別の顔。


    そういった関係性を好みます。

    そして『ピュグマリオンとガラテア』で判明した通り、

    自分は床のチリになって観測したいタイプです。

    では、本編最後の状況を確認してみましょう。


    長い因縁があります。

    相性は最悪です。

    性格は正反対です。

    散々怒られた直後です。

    夕暮れです。

    二人きりです。

    普段は口の悪い相手が、何も言わずに手を取ります。

    そして、傷の手当てを始めます。


    本来なら、

    床のチリになって観測したいところです。

    ただし。

    観測対象の片方が、

    自分でした。

    バグりました。

    なお。

    この項目は、あくまでアフロディーテ側に存在する危険因子を解説したものです。

    アテナが何を考えていたのかについては、本作は何も回答しません。

    また、本編最後の、

    「それは、解釈違いです。」

    が、以上のどれに対する発言だったのかについても、

    本人の名誉のため回答を差し控えます。


    なお、その後も彼女が耐え続けたかどうかについて、

    本作は何も保証しません。


    【そして、神話から歴史へ】

    ■ハインリヒ・シュリーマン

    なお。

    物語に「脳を焼かれた」のは、

    アフロディーテだけではありません。

    十九世紀。

    ホメロスの物語に魅せられ、その中に描かれたトロイアを、現実の地面から探そうとした人間がいました。

    ハインリヒ・シュリーマンです。

    シュリーマンは、ホメロスの叙事詩などを手がかりに、現在のトルコ北西部にあるヒサルルクの丘をトロイアの地と考え、発掘を進めました。

    もちろん。

    シュリーマンが掘り出したものすべてが、そのままホメロスの物語の証明になったわけではありません。

    彼の発掘方法にも、発見した遺構や遺物の解釈にも、現在では多くの問題が指摘されています。

    それでも。

    かつて詩人たちによって語られた「イリオス」という場所を、

    本当に地面の下から探そうとした人間がいました。

    神話の中で滅びた都市を、

    物語に魅せられた人間が、

    現実の地面から掘り起こす。

    その人間もまた、

    物語をただの物語として終わらせることができなかった一人でした。

    その話については、こちらで


    ■ 認めたくない女神の叙事詩


    第一歌 ピュグマリオンとガラテア

    第二歌 パリスの審判

    第三歌 アラクネ

    第四歌 イリオス

    幕間 黄金の林檎

    第五歌 アタランテとヒッポメネス

    第六歌 女神の機織り

    第七歌 愛の女神と三処女神

    🔑後日談 ただの夢です


     
     
    昔話は、今を映す鏡。 誰もが知る物語を、 今を生きるぼくらの視点でもう一度見つめてみませんか。 結末は変わりません。 変わるのは、見え方です。 そこに答えはありません。

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