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ブルゴーニュの価値を、どうつなぐのか|芸術の域を目指すヴィニュロンから、遠い市場のグラスまで

    トップレベルのヴィニュロンが求めているのは、特別扱いではない。

    自分のワインが何であるかを理解してもらい、その価値が生きる場所へ届けてほしい。

    しかし、ワインがセラーを出た瞬間から、その仕事は造り手一人では完結しなくなる。

    インポーター、営業担当者、ワイン商、レストラン、ソムリエ。そして最後に、その一本を飲む人。

    そこには、それぞれ違う役割と、違う現実がある。

    では、芸術の域を目指して造られた一本のワインの価値を、遠い市場のグラスまで、どうつないでいけばよいのだろう。

    今回は、ブルゴーニュの畑から日本の飲み手まで、一本のワインが旅する間に生まれる難しさについて考えてみたい。

    感覚を揺さぶるワイン

    夏は、陸上競技の季節でもある。

    世界各地で大会が続き、日本でも世界を舞台に戦う選手たちの姿を目にする機会が多い。

    100メートルをわずか10秒ほどで走る。

    数センチ、数百分の一秒の差を縮めるために、選手たちは何年もの時間を費やす。

    私たちが見る決勝は、ほんの数秒で終わる。しかし、その一瞬の背後には、毎日のトレーニング、食事、睡眠、技術、精神力、そして何年にもわたる試行錯誤がある。

    世界の頂点に近づけば近づくほど、その差はむしろ小さくなる。

    ほんのわずかな差を生み出すために、人生の大きな部分を競技につぎ込む。

    ブルゴーニュのトップヴィニュロンを見ていると、私は時々、この世界に似たものを感じる。

    もちろん、ワインを金メダルで順位づけたいわけではない。

    似ているのは、

    究極の一歩を求めるために、人生をつぎ込むという姿勢

    である。

    ハイレベルなブルゴーニュを飲んでいると、時々、これはもう単なる農産物ではないと思うことがある。

    芸術作品に近い。

    畑を観察し、土を理解し、剪定を考え、収量を管理し、収穫の一日を見極める。

    醸造と熟成の細部にまで神経を注ぎ、それを毎年繰り返す。

    しかも自然を相手にするため、前年の成功をそのまま繰り返せばよいわけではない。

    トップアスリートがほんの数百分の一秒を縮めるために何年も努力するように、ヴィニュロンもまた、ほんのわずかな違いのために膨大な時間と労力を費やす。

    一本のワインの向こう側に、人生そのものがある

    そして、優れた畑のポテンシャルと、その可能性を最大限に引き出す人間の感性と技術が重なったとき、ワインは時として芸術の域にまで達する。

    しかし、スポーツとの大きな違いが一つある。

    陸上競技には時計がある。

    順位がある。

    そして、金メダルがある。

    ワインには、その絶対的な尺度がない。

    だからこそ、その価値を理解し、次へつないでいく人が必要になる。

    *ワインにもコンクールのメダルはあるが、産地やカテゴリーごとの評価であり、ワイン全体を横断する絶対的な尺度ではない。

    造るところまでは、自分でできる

    ヴィニュロンは、自分の畑を耕し、ブドウを育て、収穫し、醸造し、自分が納得する一本を造るところまでは、自分の力で到達できる。

    しかし、ワインがセラーを出た瞬間から、その先は自分一人では完結しない。

    まして、ブルゴーニュから遠く離れた日本市場となればなおさらである。

    誰かに託さなければならない。

    インポーターが輸入し、営業担当者が販売し、ワイン商やレストランへ渡り、ソムリエが客へ勧める。

    造り手が人生をかけて完成させた仕事は、その後、何人ものプロフェッショナルの手を渡っていくのである。

    トップヴィニュロンが求めているのは、自分への特別待遇ではない。

    自分のワインを理解してほしい。

    そして、

    その価値が生きる場所へ届けてほしい。

    しかし、その先を造り手自身がすべてコントロールすることはできない。

    ここに、最初のジレンマがある。

    ブルゴーニュは、格付けだけでは分からない

    ブルゴーニュには、地域名、村名、プルミエ・クリュ、グラン・クリュというアペラシオンの階層がある。

    これは極めて重要な指標である。

    しかし、それだけでブルゴーニュを理解することはできない。

    同じ村でも違う。

    同じプルミエ・クリュでも違う。

    同じクリマの中で、ほとんど隣り合った区画であっても、造り手が変わればワインは驚くほど変わる。

    誰が畑を耕すのか。

    どう剪定するのか。

    どれだけ収量を取るのか。

    いつ収穫するのか。

    どう醸造し、どう熟成させるのか。

    その積み重ねによって、同じアペラシオンからまったく異なるワインが生まれる。

    つまり、ブルゴーニュにはアペラシオンのヒエラルキーだけでは説明できない、もう一つの大きな軸が存在する。

    ヴィニュロンである。

    アペラシオンは重要である。

    しかし、それは答えそのものではない。

    しかし、造り手だけを見てもいけない

    一方で、近年は「誰が造ったか」が大きな意味を持つようになった。

    生産者名そのものがブランドとなり、時にはアペラシオン以上に注目される。

    私自身もこれまで、造り手の仕事に強く注目してきた。

    しかし、それだけでもブルゴーニュを十分に語ることはできないと思っている。

    どれほど優れたヴィニュロンであっても、畑そのものが持っていないものを、ゼロから生み出すことはできないからである。

    ブルゴーニュの出発点には、やはり畑のポテンシャルがある。

    斜面、標高、方角、土壌、母岩、水はけ、西風…..。

    何世紀にもわたって人々がその違いを観察してきたからこそ、ブルゴーニュには「クリマ」という考え方が生まれた。

    しかし、素晴らしい畑があれば、自動的に偉大なワインになるわけでもない。

    その畑の可能性を読み取り、一本のワインへ仕上げるには、人間の感性と技術が必要になる。

    畑のポテンシャルと、それを芸術作品の域にまで引き上げることのできるヴィニュロン。

    どちらか一方ではない。

    この二つが重なったとき、「高品質」という言葉だけでは説明できないワインが生まれる。

    そして、その価値を受け渡すプロがいる

    しかし、それでもワインは完結しない。

    その先には、価値を受け取り、次へ手渡していく人たちがいる。

    バイヤー、インポーター、営業担当者、ワイン商、レストラン、そしてソムリエ。

    インポーターやバイヤーは、どのワインを市場へ持ってくるのかを考える。

    営業担当者は、その価値を取引先へ伝える。

    ワイン商やレストランは、そのワインが生きる場所を考える。

    そしてソムリエは、最後に飲み手と向き合う。

    これは、一つのバトンリレーに近い。

    誰か一人が理解していても、その次で価値が伝わらなければ、そこで途切れてしまう。

    一人ひとりがその意味を理解して次へ手渡すことで、造り手が畑で生み出したものが、遠い国のグラスまでつながっていく。

    ソムリエは、最後の翻訳者でもある

    その意味で、ソムリエの役割は特別である。

    ソムリエは流通の最後にいて、同時に飲み手の最も近くにいるからである。

    ワインリストに並ぶ何十、何百というワインの中から、目の前の人が何を求め、何を食べ、どのような経験を望み、どのくらいの予算を考えているのかを見ながら、一本を選ぶ。

    だから、優れたソムリエの仕事は、単なる販売ではない。

    ある意味で、最後の「鑑定」であり、「翻訳」でもある。

    ヴィニュロンが畑とワインで表現したものを飲み手へ伝え、最もふさわしい瞬間に届ける。

    そこで初めて、一本のワインの長い旅が完結する。

    しかし、すべてのプロには「売る」という現実がある

    もちろん、現実は理想だけでは動かない。

    インポーターも、ワイン商も、レストランも、ワインを売らなければならない。

    ソムリエも、素晴らしいワインを理解しているだけでは仕事にならない。

    在庫を管理し、原価や客の予算を考え、売上をつくらなければならない。

    つまり、流通に関わるすべてのプロは、

    「価値を理解すること」と「商業として成立させること」

    の間にいる。

    芸術の域を目指して造られたワインであっても、商品として市場を流れていかなければ、次につながらない。

    だから、商業性を否定することはできない。

    難しいのは、

    価値を失わせずに、きちんと売ること

    なのである。

    ブルゴーニュが少し遠くなった今だからこそ

    日本では、円安をはじめとするさまざまな要因が重なり、ブルゴーニュを以前より高く感じるようになった。

    だからこそ今、「高いか、安いか」だけではなく、その一本にどのような価値があるのかを見極めることが、これまで以上に重要になっている。

    有名だから、グラン・クリュだから、評価が高いからではない。

    畑のポテンシャルと、そこから何を引き出したのか。

    その違いを理解し、その価値が生きる場所へ届けること(人)が、より重要になっている。

    すべてを同じパニエ(籠)に入れない

    だからこそ、すべてのワインを同じ方法で扱うことはできない。

    これは、高価格帯のワインだけを特別扱いするという意味ではない。

    異なるものを、異なるものとして理解すること。

    広く販売することに向くワインもあれば、数が限られ、十分な説明を伴って初めて価値が伝わるワインもある。

    その違いを理解し、それぞれの価値が最も生きる場所を探す。

    それもまた、ワインを扱うプロの仕事なのだと思う。

    「まだ知られていない価値」を見つける力

    その点で、英国や米国をはじめとする成熟したワイン市場を見ていると、まだ広く知られていない造り手を早い段階から見いだし、時間をかけて市場を育ててきた例が少なくない。

    畑を見る。

    造り手を見る。

    ワインを飲む。

    ヴィンテージを追う。

    そして、まだ世界的な名声を得ていない段階から、突出した仕事をしているヴィニュロンを見つける。

    有名になってから価値を認めるのではない。

    まだ名前のついていない価値を見つけ、それを市場へつないでいく。

    ここにも、プロとしての力量がある。

    もちろん、日本にもブルゴーニュを深く理解するプロはいる。

    ただ、アペラシオンだけでは語れず、畑と造り手の組み合わせによって表情が大きく変わるブルゴーニュでは、その価値を理解し、流通の最後までつないでいくこと自体が非常に難しい。

    ブルゴーニュそのものも変わってきている

    そして今、ブルゴーニュの構造そのものも変わっている。

    かつて、ブドウ栽培農家の多くには、自分たちで瓶詰めし、ブランドをつくり、世界へ販売する力がなかった。

    そこで大きな役割を果たしたのがネゴシアンである。

    農家からブドウや果汁、ワインを買い、醸造、熟成、瓶詰めを行い、世界へ販売することで、ブルゴーニュを世界市場へ広げてきた。

    しかし、時代は変わった。

    現在では、生産者の次世代が醸造学や農学、経営を学び、外国語を話し、海外で経験を積むことも珍しくない。

    「ブドウを栽培して売る農家」から、

    畑を所有し、ワインを造り、自らブランドを構築して世界へ発信する経営者

    へと変わってきた。

    そうなれば、優れた畑から採れる質の高いブドウを、自らのドメーヌのために残そうとするのは自然な流れである。

    もちろん、「ドメーヌは上、ネゴシアンは下」という単純な話ではない。

    自社畑を所有するメゾンもあり、長年の関係によって素晴らしい原料を確保するネゴシアンもいる。

    ただ、ブルゴーニュの構造が変化している以上、

    どの畑を、誰が手がけているのか。

    その組み合わせを見ることは、これまで以上に重要になっている。

    トップヴィニュロンが抱えるジレンマ

    ここまで考えると、世界のトップレベルまで仕事を突き詰めたヴィニュロンが、遠い市場へワインを送り出すときに抱えるジレンマが見えてくる。

    造り手は、一つの畑、一つのヴィンテージのわずかな違いを追い続けている。

    一方、インポーターやワイン商、レストラン、ソムリエは、その一本だけを扱っているわけではない。

    多くの生産者、多くの産地、多くの価格帯のワインを扱いながら、市場でビジネスとして成立させなければならない。

    どちらかが正しく、どちらかが間違っているのではない。

    立っている場所が違うのである。

    造り手は、一つの作品を究極まで高めようとする。

    流通する側は、多くの作品の価値を理解し、それぞれにふさわしい場所を探しながら、市場を成立させていく。

    そしてソムリエは、その先で目の前にいる一人の客と向き合う。

    だから、トップヴィニュロンが遠い市場に期待するのは、特別扱いではない。

    自分がつくったものが何であるかを理解してもらい、その価値が生きる場所へ届けてもらうこと。

    しかし、それを実現することは決して簡単ではない。

    芸術性と商業性。

    造り手の論理と市場の論理。

    その二つの間をどうつなぐのか。

    そこに、トップレベルのブルゴーニュを扱う難しさがあるのだと思う。

    畑から、グラスまで

    ブルゴーニュは、そもそも「違い」から成り立っている。

    畑が違う。土壌が違う。ヴィンテージが違う。そして、人が違う。

    その違いを消すのではなく、理解し、それぞれの価値が生きる場所へつないでいく。

    畑のポテンシャル。

    それを芸術作品へと昇華させるヴィニュロン。

    その価値を受け取り、次へ手渡すプロフェッショナル。

    そして、その先で一本のワインと出会う飲み手。

    世界の頂点を目指すアスリートには、時計があり、順位があり、金メダルがある。

    しかし、ワインには絶対的なゴールがない。

    だからこそ、その価値は人から人へ受け渡されていく。

    大切なのは、違う立場にいる人たちが、それぞれの役割を果たしながら、一本のワインが持つ価値を次へつないでいくこと。

    そうして初めて、ブルゴーニュの小さな畑で生まれた一本は、何千キロも離れた日本のグラスの中で、その物語の続きを生きることができるのである。




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